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[書評]何と温かく慎ましやかな食事があるのか。人間性の奥行き増す「食」の作法。

曹洞宗の僧侶・吉村昇洋さんの『心が疲れたらお粥を食べなさい』を読みました。感動です。

いまここを丁寧に生きることは美しい

私は、人の豊かさは「丁寧に生きる」生きかたにあらわれると考えています。丁寧に振る舞い、丁寧に人に接し、ひとつひとつの物事を丁寧に扱う。そこに、私は、キラリと光る人格の輝きを見ます。そういった言動をとるのは、とても難しいことですけれど……。

本書は、曹洞禅の修行のとらえかたを通じて、「丁寧に生きる」ことの味わいと豊かな側面を言語化しています。主題は「食事」です。曹洞宗の祖・道元は『赴粥飯法』のなかで、食事の場こそ仏道修行に最適な場であると述べました。食事は人間の三毒(=人間の怒り、むさぼり、愚かさのこと)が露見しやすいというのです。だからこそ、欲望の赴くままに食事をするのではなく、所作ふるまいに誠実さをあらわしながら、美しく食べていく。美しく食べることで、三毒や欲望を御していく。コントロールしていく。そこから、丁寧に生きる新たな道が重ねて開かれる。吉村さんの記述から、私はそういったことを教わりました。

禅の修行とはどういったものか

禅の修行とはどういったものをいうのか。吉村さんは、ひとこと、「徹底的に今この瞬間に意識を向けて、ありのままに受け止めること」と表現しています。

今この瞬間を惰性的な慣性に流されず、全神経を目の前の所作に集中させて振る舞い、そこで感じたこと、感受したこと、リターンをそのまま受容する。それが禅だというのです。たとえば、食事中にしゃべらない。姿勢をただして、器や箸を両手でもって丁寧に扱う。口に食べ物をふくんだら、箸をおいて咀嚼に専念する――といった感じです。そのときに感じられる風味を、食感を、体と食材の境目の壊れを、最大に受け止めていこうとするのです。

食事の前に偈(げ=経典の詩句部分)も唱えるのですが、その内容も、①食べ物を生産した人の苦労に思いをはせ、また自分のもとへ運ばれてくる過程を想像せよ、②そのような食べ物を得る資格が自身にあるかを問え、③身体の衰えをいやすための良薬が食事であると位置づけて食べ物を食べよ、等々を誓う内容になっています。

食べるという行為の美しさ。基底に心配り

もちろん食べ残しなどしません。それは、命をいただいているという感謝の念に加え、器を洗う人の負担が少しでも軽くなるように、といった配慮の念も抱くからです。こういった所作が、丁寧さを心がける原因と同時に結果にもなるのです。

吉村さんが過ごした永平寺僧の食事姿勢は、端的に言って「美しい」そうです。音を立てないように慎重に器を扱いつつも、一点の迷いもなくスピーディに食事を行じる。おもわず目を奪われるものがある、と。本書の描写から、その姿をありありと想像することができます。食べ物を「いただく」ことにも、審美的に言って、「普遍性ある美」が宿ることがあるのでしょう。

一本の野菜を仏さまだと思って

『典座教訓』に「一本の野菜を仏さまだと思って十分に活用し、大切に用いなさい」という内容の一文がありますけれど、万物に宿る仏性に思いを馳せるからこそ、そういった丁寧な食事ができるのです。

人にやさしくあれ。人に誠実であれ。言葉ではよく聞きますが、その真髄と具体を食事から垣間見せてくれる本書は、丁寧に生きたいと思っている人の指南書となるかもしれません。まことに道元禅師らしい教えの極地ともいえましょう。

そろそろ、夕食の時間ですね


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