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いま宗教が傾聴すべきは「隣る人の苦」と「宗教離れ」の音

先日、学生たちのこんな会話を耳にしました。

学生A「宗教ってキモいよなー」
学生B「宗教信じるやつって基本バカだよね」
学生C「幸福の科学の大川隆法なんて、離婚とか息子の問題(たぶん宏洋氏のこと)とかで炎上してるし」
学生B「霊言マジで信じてるのかよって、バカだわー」

これを聞いて私は、長男・大川宏洋氏が「(父・隆法氏を)神だと思ったことは一度もない」と語り、告発本も出したことを思い出しました。

と同時に、私がブディストの端くれでもあるからか、「宗教キモい」の物言いに良い気はしませんでした。

今の若い世代の気持ちとしては、上記のような本音はあると思います。それ以前に、多くの日本人は宗教に無関心だったりもするのでしょう。

「信じるやつはバカ」に誠意ある応答を

学生Aの「キモい」という感想が「宗教」を雑に括って一絡げに拒否するものなら、やはり私は嫌だなと思います。一方で、「宗教を信じるやつは基本バカ」との学生Bの意見は、バカの定義次第では案外かんたんに反論できない主張になるなとも思いました。

無神論者と呼ばれる人で私が真っ先に想起するのはリチャード・ドーキンスです。彼は「神は妄想」と言ってのけ、「宗教に騙されない作法」をも語っています。同じ"科学者"という枠でいえば物理学者ホーキングも「神は存在するかもしれない。だが、私は神の助けがなくても説明できる」と語っています。

先日よんだ『神は、脳がつくった』(E.フラー・トリー著、ダイヤモンド社)では、人類史のなかで神が存在したのはわずか7000年間、"サピエンス全史"の3%に過ぎないと述べられていました。同書にはモンテーニュの「人間はまったくイカれている。虫けら一匹も造れないくせに神は何ダースもでっち上げる」との揶揄も引用されています。

彼らは「神は存在しない。しかし必要ではある。それが要る人にとっては」と主張しているのです。

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無神論者・無宗教者が増えている?

中村圭志さんの『西洋人の「無神論」 日本人の「無宗教」』(ディスカヴァー携書)にこんなことが書かれていました。「国際的な流れとして今、無神論者・無宗教者が増えている」と。わたし的には『The Oxford Handbook of Atheism』(Stephen Bullivant等編、Oxford Univ Pr)に逆のことが書かれていたので、そう言い切れるかには疑問符をつけますが、局地的に見れば、熱心に教会に通う人が減っている等といった見方は成り立つと思います。

21世紀初頭、9.11テロの影響もあってか、「宗教が復権してきている」という「神々の復讐」的な語りがなされました。今もそう語る識者は少なくありません。イスラム原理主義やキリスト教の福音派等が存在感を強めている、「教線拡大」と「原理主義者へのアテンションの強まり」が主な話ではありますけれど、敬虔な信仰者はが減っているということは、かなりの確度をもって実証されてもいます(特にキリスト教)。宗教離れが起きているのです。

先ほど述べたとおり、私はブディストです。組織宗教に関する知見も持っています。なので、「宗教が狂信と悲劇を生む」という事実とも真剣に向き合ってきました。「ちょっとあり得ないよね」という新興宗教の思考も分析してきました。だからでしょう。反感を抱くとはいえ、「宗教を信じるやつはバカ」と言いたくなる気持ちも理解できます。「宗教離れ、起きるだろうな」とも思います。

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宗教はほんとうに人を「善く」「賢く」するのか

宗教はほんとうに人を善く、強く、賢くするのか?

ビビッドな問いです。ハーバード大学でそう聴衆に問うた仏教指導者もいます。スタンフォード大学等で講演したクリシュナムルティは、それをもっと先鋭的にし、「宗教は人を分断する」と追及しました。なぜなら、宗教が人を悪く、弱く、愚かにした事例が多いからです。

かのダライ・ラマ14世は、宗教に対し「手放し礼讃」という立場をとっていません。彼は、「この世界には様々な宗教が存在しますが、その中で特に哲学的な見解を持っている宗教は、愛や慈悲の心を高めなければならないと教えています」と述べました。どんな宗教であれ立派なことはそれなりに言うけれど、信仰をすれば愛や慈悲にあふれた人格が実現するというものではない、と。しかも「どの宗教でも良い」わけでもなく、彼は「哲学的な見解を持っている」という要件を示しています。

大胆に意訳すれば、その要件は「本気で信じつつ、批判的視点も持つ」と言い換えられるでしょう。社会学者・安藤英治は、マックス・ウェーバーが頻用していた「Wertfreiheit」を「価値自由」と訳し、それは「価値を持ちながらそれに囚われないこと」と言いました。この知的スタンスに近い構えが信仰にも必要です。あたかも物事を観察をしている時に自分がどういう観点を採用しているかを知っていた方が科学的に良いように、信じているその時に自分がどういう信じ方を採用しているかを知った方が信仰的に良いとダライ・ラマは言うのです。

理性的批判と信仰の両立について

宗教は優れた道徳や倫理を提供する一方で、実践のなかにジレンマをかかえます。その最大要素の一つが、「理性的批判と信仰の両立」です。数少ない宗教がこのファクターにきちんと向き合わずやってきました。「盲信」への道がやたらと広くつくられてきた宗教があるのです。ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』(岩波書店)に描かれるような、キリスト教の正義とフランス革命の正義の論争、そこに生まれる逡巡や葛藤を「必要ないよね」と言わんばかりにスルーする。自宗を"万能薬"と信じて疑わず、宗教活動の不文律と教義にあてはめればどんな事案も解決! と確信する信仰者を私も見てきました。

問題は、それを"純信"として手放しに肯定して良いのかという点です。

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「合理的に考えたら、こうだよね」ということが、自宗の教えに必ずしも一致するとは限りません。新しい学術的知見が、また新しい技術の採/不採が教えを脅かすことだってあります。脳死の問題や、昨今のデザイナーベビー「是か非か」といった論争はその好例です。

また、日常生活においても、今ここの所作は宗教的な清貧や誠実にもとるか否かといった様々な葛藤が生じます。その時に、「かつてこうだったから、こう」「教祖様がこう仰っていたから、こう」といった"ひな型"に自身を(また他人を)押し込んで、理性的批判を斥けてしまう。いわゆる「思考停止」です。そうなると危険信号。葛藤のない思考が言動の凝りを生み、それに縛られた信仰者は教祖の言と伝統から出ない行為に終始し始め、事なかれ主義に堕していきます。そうして堕落していった宗教の例は枚挙にいとまがありません。

科学の証明を心待ちにする宗教者たち

もちろん宗教には「功徳」というものがあります。信じることによって生まれる「良(善)きこと」が厳然とあるのは、彼らが体感するところでしょう。

ただし、社会学的な見方をすれば、どの宗教にも神の徴(しるし)、実践の恵み、功徳、メリットがあるということになります。各宗教によって「良(善)きこと」の定義が違うとはいえ、実践者は「功徳」を語ります。そしてその時に「あちらさんの宗教の功徳とやらは紛いものだ」と言い出したりする。言わずにはいられない人がいる。でも、それではキリがありません。にもかかわらず"排他的に"そうしてしまう信仰例が、やはり枚挙にいとまがないほど存在します。

あるいは「社会学的な論証など必要ない! 科学だって不完全だ。理論で語りつくせないから信じるのだ!」と言う人もいます。それは、そのとおりです。理論や知といっても神羅万象のひとカケラにすぎない。でも、だからといって科学などの知見・知恵は斥けて良いという話にはなりません。

個人的には、時代の進捗と宗教の間で摩擦が起きたときに「拒否」というのは宜しくないと思います。ダライ・ラマが、愛や慈悲に通じる宗教に「哲学的な見解を持っている」という条件を付したことには意味があると思う。なぜなら、「完全なる教義」は存在しえず、仏教史やキリスト教史、イスラームの歴史をひもとくと、「教義の変化やメンテナンス」の必要性を物語る例証に嫌というほど出合うからです。

普遍的なものが教えに内在していたとしても、時代に応じて語り方や重心を変えることは必要です。教義には、時代的・環境的な制約を受けた、「その時機にしか通用しない」ものが混入します。それへのメンテに必須なのが、哲学的な批判精神です。それを排斥してしまえば、時代遅れの宗教になってしまうでしょう。

興味深いのは、新興宗教などを見ていて時折、「祈りの効果が科学で証明されました!」といった俗っぽい説に一目散に飛びつく人を見かけることです。「科学を否定したがる宗教者が、一方で『自宗の教えが科学的に証明されたらいいな』と願っている」という精神構造がまま見られます。そんな"都合の良い時だけ科学"という態度はやはり良くないと思う。

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「思考停止」が神を死なせる

先に言及した中村圭志さんの書は、無神論者のロジックに共鳴しつつ、宗教者が陥りがちな「思考停止」のありようを紹介しています。これまで述べてきた、「批判なしに拒否・排斥」という態度がまさにその思考停止なのですけれど、もし冒頭のBさんの指摘、「宗教を信じるやつはバカ」の「バカ」の定義に「思考停止」が含まれるとしたら、「必ずそれに応じなければならない」とまでは言いませんが、理性的なものに各宗の世界観がつき崩される可能性があるので、せめて「宗教はほんとうに人を善く、強く、賢くするのか?」という問いから目を背けないようにすることをお勧めします(だれ目線)。

フリードリヒ・ニーチェの「神は死んだ」は有名な言葉です。この箴言はよく誤解されています。この告発は「知的営為によって魔術が権威を失い、神が殺されてしまった!」と理解されがちですが、ほんとうは「宗教者の手によって宗教(キリスト教)本来の豊かさが失われてしまった!」という意味をもっていました。私なりにワンフレーズ化すれば、「宗教は自殺した(する)」ということです(強引すぎ)。

ニーチェが指摘したのは「弱者救済のための教えが弱者のなぐさめにしか機能せず、弱者に幻想の満足感を与え、弱者が本来もつはずの抗いのための生命力等がそがれてしまった。いつまでも弱者は弱者のままだ(で、権力者などが平然としていられる)」ということです。

宗教は常にこの"自殺"に流れる性質に抗わなければならない。その"自殺"への道を開いてしまうのが「思考停止」をもとにした「バカ」です。これを真剣に受けとめる宗教者を、私は信頼しています(わたしの信頼など、どうでもいいことですが)。そして恐らく、こういったことに丁寧に応じる宗教が、"宗教離れ"をも乗り越えていくのでしょう。

一応……確、認、ですが、これだけ宗教に意見する私は、ブディストです。信仰者です。宗教人です。わりと、篤いです。念のためお断りしておきます。

しかし「幸福の科学大学」は認可されるのでしょうか……。

※引用は、すべて趣意

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