きっとあの人には固い信念があるだろうという固い妄想…。なくてもよくね?
いろいろな人から改めて「どんな信念をお持ちなんですか?」と聞かれたり、旧友から「いま正木は何を信念に活動しているの?」と問われたりしている。僕は、そのたびに戸惑っている。そんなものは、ないからだ。
少なくとも僕には、何かを強く信じているという感覚がない。「これがオレの柱です!」みたいに気張って意識化されるようなものが、僕には、ない。もちろん、それがイコール、他人に対してつねに懐疑的だとかいう話になるわけではない。人間関係や人とのつながりにおいては「信じる」でもなく「疑う」でもない感じでいる。どちらも、意識化されることは稀だ。
これは、自分自身に対しても同じである。僕には、自信がない。ない、というか、自信を意識することが長年ない。かつては自己嫌悪や希死念慮に取りつかれ、穀潰しの社会的ゴミだと自認していたので、自信のなさでいっぱいだった。が、今は自分に不信を抱くことが、ない。かといって、ふつふつと自信がわいているという感じもしない。端的に、「自信」というものに関心が向いていないのかもしれない。それは、平穏無事な毎日を送っているからだろうか? そんな気もしない。まあ、結構さいきんもいろいろあったばかりだ。
これに関して、僕は胃痛と嘔吐を繰り返した。でも、こういう時に僕の念頭にあるのは、ラジオ番組のスポンサー云々の問題が起きたがために僕に期待を寄せてくれていた人たちを傷つけてしまった罪責の念であり、迷惑をかけてしまったことがらであり、さまざまなリスクである。それらは胃に穴があくほど僕をさいなむし、いたたまれなさで胸も裂けそうになる。とはいえ、それで自信を失うことはない。リスクに立ちすくむことはあっても、それが自信喪失になることはない。なぜなら、失うとかいう以前に、自信がないから。ないものは失いようがない。
ただただ、淡々となすべきことをなすだけである。
僕は、傍からみるととても「リア充」に見えるらしい。僕には、そういう自覚が、やっぱり、ない。まわりは「堅牢そうな正木のメンタルはさぞかし固い信念に支えられているだろう」と想像するみたいだ。ないものは、ないのだが……。
改めて確認。
信念は、ない。
ただ、支えになっていることはある。
それは、愛するわが子たちの体温だ。子どもたちが発する音やしぐさだ。寝息をたてながらわずかにゆれる体、間接照明にきらめくまつ毛、ぎゅっと抱きしめた時のその感触だ。鼓動だ。僕の腕のなかにいる子どもたちは、きゃっきゃしたり、もじもじと動く。その時に僕は、わが子であっても彼らが他者であることを改めて知る。そこには、いつもズレがある。しかし、そのズレが存在するからこそ、体温という言語化できないもので「つながれる」。その実感、「あの感じ」は、たしかに僕を支えている。子どもの存在が、ただいてくれることが、存在してくれていることが、支えである。
「つながり」は、当然ながら、「他人」とのあいだで生まれる。
信念や自信というものが、もし「自分自身とのつながり」の確度を示すものなのだとしたら、僕には、やはり信念や自信は、ない。ただ、子どもという他者が、わが子がいる、という「子信」が、僕の支えになっている。
子信は、ふつふつとわく自信、ぎらぎらした本能、威風堂々たる信念のような"ざわめき"もなしに、ただ静かに、ある。
信念……必ずしもなくてもいいと僕は思うのだが、どうだろう。もちろん、あってもいい。まあここからは金子みすゞ先生の出番かな……。ただ、「固い信念、なきゃダメだよね」という固い妄想にとりつかれて、「信念を磨かなきゃ~」と切迫的に気おされている人を見かけると、「信念がなきゃいけないという信念」みたいなものは、むしろ要らないのでは、と思ったりする。そういう人には、「まあまあ、そう興奮せずに、こちらにお座りになって」といって、一緒にすわり、温かいお茶を飲むのが、さしあたり僕のしたいことである。ほっと、ね。
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