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週間レビュー(2024.10.21)他人の言葉を引用してしまうのは、君が正面から戦う気がないからである。

起きれない、外に出られない、PCを開けない、の3連続で今週の前半辛かった。あらゆる物事にテンションが上がらなくなるのは、精神的な何かの限界突破したときなんだけど今回のはよくわからない。数週間後にわかると思うので一旦気にしないようにしている。とりあえず、自分を静かにしてあげた方がいい時もある。

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Michele De Lucchiの六本木六軒を見に行った。Micheleは個人的にはデザインや建築が好きになった大きなきっかけの人で、彼のハンドメイドへの熱量と社会的な視野の大きさと瞬発力は、その年齢とは非対称なまでの強さを持っている。プロフェッショナルの域をとうに通り越した仙人みたいな人だと思う。本展も「作品」というより強い社会洞察と作ることへの姿勢や様に焦点が当たっていたと思う。文化的デザインコードを軽々と融合していこうとする彼はいつまでも前衛的で、いつまでも子供のような、手によるものづくりへ眼差しがずっと等身大で素敵だなと思う。どうにか半年でも働きに行きたい。
https://www.2121designsight.jp/gallery3/roppongi_rokken/

ゴミウンチ展は、リサーチテイストの手法やQ&A的な作品たちはキュレーショナルすぎて最近って感じだな。と正直に思った。(解築の議論の方が数倍おもしろいぞとポジショントークかもだが感じた。)

やはり形を絞り、納めにかかること、造形を決めるところに覚悟を見出したいと思うので、たくさんの可能性を広げました、気づきを与えます的なものはあくまでプロセスであり形態ではないと思ってしまう。スタディプロセスを見せられているようなものを作品と呼ぶのは僕の受けてきた教育だと怒られてしまうのだけど、そういうものも許容するくらいには、この世は複雑ですということなのだろうか。ジャーナリズムのようなある点からスライスした視点を提示したり、社会的接点を持ち得ないのに感動もしないものを提示されてもどうにも心も体も動かない。説明しないと人に伝わらない、わからないものは自律してない、建築文化としては、そうはありたくないなと思った。ある意味でMicheleの展示と真逆だったのを多くの人はどう感じたのだろう。

飛行機の解体現場の写真の作品と、汚物や下水から作ったタイル(確かLIXILとの共同作品)木材の断面を大胆に見せる壁材の3つが最も良かったかな。

Life Cycles(マイク・ケリー)
下水汚泥タイルプロジェクト(狩野佑真+LIXIL)

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ASIBAのコミュニティイベント、参加者のジェンダーバランスが崩壊したのが一番の問題点であり反省点だった。自分たちが建築の男性優位的な界隈的な事象が発生していることを露呈させたことは真摯に受け止めないといけない。他にも、ステートメントを策定して発表した。これはまた、まとめて公開する予定だけれど、自信はあった。それでも、色々な人が真っ直ぐに意見を伝えてくれたり、場に飲まれる事なく批評してくれる、期待を言葉にしてくれるのは幸せな環境だなと思う。裸の王様のように何も言われない方が危険だからだ。感性も経験も未熟だし、僕の力量で組み立てられるものは多くはない。だから、誰よりも手を動かし、誠実に線を引き、対話を繰り返し、貪欲に学びながら、社会に形を示していかないといけない。

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MEsの営業サポートをしてみているのだけど、アートがプロダクト設計として専攻していて、デザイナー目線だと欠陥に見えるのがアートとデザインの横断のむずさだと学びになることが毎度。逆に、デザインが専攻しすぎると硬すぎて、モノとして長生きしない、新陳代謝が早いからだ。しかし、どんな道具も、最後はその道具を使いこなく覚悟を求めることになる。勇者の剣を握るか、平凡だが使い勝手の良い剣をにぎるか?はクリエイティブジャンプにかけるその人の覚悟に依存するのだと思う。

あとはプロと対峙することが増えてきて、自分が何とか対等程度に向き合えているのは、全部60点でも4、5領域できていることにあると思う。1つの分野で150点になるには時間と経験が必要になる。いつか、濱口さんに全部できるのは当たり前、全部の思考や挙動はトレースできないとダメで、その上でウルトラ必殺技を持てと言われたのを思い出した。ある種プロはウルトラ必殺技は磨かれていても、多領域を触れるわけではない。僕は完全に多領域横断派だ。そういう意味で設計事務所一本はどうも落ち着けないのだと思う。そして最後に、Entrepreneurや場を飲む力やleadershipが最後には最も大きな武器になる。

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世田谷区の社会起業家や政治家、デザイナー等のプレイヤーを横断的に繋ぐ懇親会にご招待いただいた。安い承認欲求に踊らされない玄人な先輩方がたくさんいたことが衝撃で、世田谷らしいまちづくりやボトムアップな公共デザインは世代を超えて、文化として連鎖しているんだなと思った。実際に巡り巡ったご縁やご恩により生きている広い地縁がある。何かこの場所やこの地域に対して返せるもの、変えていけることなどアクションを取り続けれたらいいなと毎度思う。

あとは、とてもご迷惑をかけて…そして、気にかけてくださり、お世話になっている方々に近況のご報告。多分、いつも同世代や会社の方々には戦闘モードだし、リーダーシップを取らねばと力んで弱みを見せれないのだけど、その時はちょっとメンタル落としていたこととお酒により不安げな顔だったのかもしれない。心配させてしまい、森原くんは痛みを知った言葉をちゃんと持っているから何にかあっても大丈夫だよと言われて、もうちょっとやれるなと思ったりした。

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プロとしてやるっていうことに対して、自分の甘っちょろさが垣間見えたり、それとなく自覚してしまうことがめっちゃ悔しい。でも力量が本当に足りないし、才能も体力も技量もまだまだ。わかっているのだけど、やっぱり慣れでこなしをしてしまう自分がすごく嫌だなと思う。

常に削り合うくらいで常にやらないといいものや面白いものはできない。スタディの量と多面的な検討と形にはめていく作業が建築の醍醐味だし、スマートにやろうとしすぎるのは自惚であり、心のどこかにある驕りと油断なのだと思う。何度もスタルクの言葉を思い出したりした。

でも、後出しでクリエイティブや検討してきたことを変えてこようとするならプロセスから議論を怠らないでほしいと思うし、ちゃんと発言してモノとして残してくれという気持ちを恐れずに思うことができた。何がなんでも譲りたくないのでわがままに押し通すみたいなことも大事だし、そう思えるまで自分の頭と身体でスタディすることなんだと思う。

スタディやリサーチってそのためにあるだろうし、同じ情報に晒されがちで、なんでもコピペしやすくなった現代において、誰かの想定を出し抜き、不可能を可能にするためには他の誰も知らない事実と仮説を見つけにいくための冒険とリスクテイクが常に必要なんだと思う。

ああだから並べただけ集めただけのリサーチは苦手なんだろうな。あと、自分のアイデアを粗末に扱ったりトレースしたり、下敷きにするのは、そういうことしかできない発想の乏しい人なんだなという気持ちになる。

>スタルク
自分の魂を、人生そのものを、売ってしまっていたことにさ。デザイナーというのは、自分の魂を、命を、ひたすら捧げ続ける職業なんだよ。生命を捧げ続けることで、生命を獲得しているんだな、きっと。だから、つまんねー作品を見ると、批判以前に「あぁ、コイツは普段素敵なカフェのテラス席でお茶でも楽しんでるんだろうな」と思っちゃう。 たしかにオレもカフェに座って通りすがりのカワイイ女の子を横目で眺めていたいけどさ。

>スタルク 物事には対価があるんだよ。何かを得たければ、相応の対価を払わないといけないのは当然だろ?残念ながら世の中にタダで手に入るものなんてひとつもないからな。 デザインっていうのはさ、しぶとく検証して、失敗して、改善して、それを延々と繰り返す。まるで檻に閉じ込められたような状態じゃない?片足が檻の中で、もう片足がカフェじゃ無理なんだよ。

ネンドノオンドより

そして、空いてる領域に自ら山を取りに行くみたいな生存的な創造性も、もちろん良いけど、やはり山を目掛けて正面から真っ直ぐ戦うことでしか得られない経験価値や豊かさもある。まとめ役であっても、同時に真っ直ぐ剣を振るうプレイヤーでもありたい。だから、川村さんのこの言葉はとっても芯を突いていると思っているし同じ気持ちだ。

僕はCDというのは、プロジェクト全体を俯瞰してオーケストラの指揮者のようにクリエイティブ・アウトプットの「ディレクション」を常に決めていくと同時に、やっぱり最強のアイデアを出せる人間じゃないといけないと思っています(この辺りのCD論は、いろいろ思うところがあるのでどこかでちゃんと文章にまとめたい…)。

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総じて、自分に内在化している不安定性と久々に向き合いながらも、生み出すことや巻き込むことの覚悟や責任感を改めて感じたこと。つくるを楽しみながらもてっぺんを目指そうとすること、それでいて社会への視野や誠実さや公益性を忘れないことを再認識した週だった。タイトルは今週ちょっと怒られた時に言われた言葉で結構心にきたものにした。少しは25歳らしくなってきただろうか。


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