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連載小説「水戸黄門 千手殺人事件」(3)

   3

「あらましはわかった。次は背景だね」とわたしは言った。「藤井紋太夫ってどういう人物だったんだい? それに、水戸黄門も。天下の副将軍、ご隠居と呼ばれているのは知ってるけど詳しいことは知らないんだ」
「水戸黄門から話そう。本当の名前は徳川光圀とくがわみつくに。幼名もあるがそれは省く。水戸黄門はあだ名だね。他にも、水戸義公ぎこう西山公せいざんこう梅里ばいり先生という呼び名がある。水戸藩の第二代藩主。しかし、その事件の起きた頃は引退して、甥の綱條つなえだに藩主を譲っている。だから、〈ご隠居〉様だね。しかし、〈天下の副将軍〉というのは誤りだ。徳川幕府にそういう役職はなかった。じゃあ、何でそう言われるのかというと、水戸、尾張、紀伊の徳川家は徳川将軍家の親族の中でも別格で御三家と呼ばれていた。しかし尾張と紀伊には参勤交代はあるけど、水戸にはなく、江戸に定住していたので、幕府の相談役を担っていると思われたんだろう。しかし、官位や石高では尾張、紀伊の方が上で、官位でいえば、尾張、紀伊は二位権大納言、水戸は三位権中納言になる。〈水戸黄門〉という呼び名は実はこの〈水戸中納言〉の変形したものだ」
「年齢は何歳だったの?」
「一六二八年の生まれだから、満年齢で六十六歳だ」
 テレビで水戸黄門を演じた役者には、東野英治郎、佐野浅夫、西村晃、石坂浩二、里見浩太朗がいるが、六十六歳という年齢と、若い頃はもっぱら悪人ばかり演じてきたという理由で、西村晃が一番ふさわしいように思えてきた。
「藤井紋太夫という人は?」
「鈴木氏の本によれば――」立眼関は厚い文庫本を開いて、「〝幕府の書院番千二百石荒尾久成の四男として生まれ、水戸藩邸の奥につかえた老女藤井の養子として水戸藩士となり、光圀につかえた。この男の才幹に眼をつけて、九百石、中老の地位に引き上げたのは、ほかならぬ光圀である〟、とある」
「年齢は?」
「不明だ。子供が二人いたことは『玄桐筆記』に書いてある」
「役職は水戸藩の中老だったんだね」
「そうだ」
「中老って、現在の会社組織でいうと、重役クラスかな?」
「大名家の家臣の中では上から二番めだが、ナンバー2ではない。トップの家老が数人いるからね。中老はその家老の補佐役だ。だから、重役の腹心の部下ってところかな。『玄桐筆記』では玄桐が紋太夫を呼びに行った時、鈴木安心老と一緒にいたと書かれてあって、たぶんこの鈴木安心老という人が紋太夫の上司なんだろう」
「中間管理職ってとこかな?」
「さあ、どうだろう」
「でも、奥――大奥のことだよね?――で働いていた女性の養子からそのポストまで上り詰めるってすごいことだよね。そして、そこまで重用したのが水戸黄門となると――うーん、ドロドロの愛憎劇の臭いがしてきたぞ。まさか、水戸黄門と藤井紋太夫の間に肉体関係があったってことはないよね?」
「知らない」立眼関はけんもほろろに言った。立眼関がワイドショーを見ないのは、無責任なコメンテーターが憶測だけで話をするのが好きではないからだ。もしこの事件が現代に起こっていたら、連日ワイドショーで取り上げられ、あることないこと言われたことだろう。
「動機については、水戸黄門本人が口論の末、殺してしまったと言う以外、何も言っていないので、推理するしかないわけだが、どれも憶測でしかない――ということを鈴木氏も言っている。とはいえ、それらを反証を許す推定として取り上げるのはいいだろう。つまり、検察でも弁護士でもどっちでもいいんだけど、憶測で作られたストーリーをぼくたちで反証を試みるわけだ。で、きみのいう同性愛説だが、二人が同性愛の関係にあったという証拠は見つからず、たとえあったにせよそれが事件の引き金となったかもわからない。よって、きみの訴えは却下だ」
 可能性として言っただけなのに、〈きみの訴え〉にされて、わたしは顔から火が出るくらい恥ずかしかった。
「よく言われるのが、藤井紋太夫の陰謀説だ。矢田挿雲の小説でもそうなっている。矢田によると、水戸黄門は目付を使って紋太夫の家を家宅捜索させ、連判帳など証拠書類を押収した。紋太夫は将軍綱吉の御用人・柳沢吉保やなぎさわよしやすと通じていて、次期将軍の世継をめぐってよからぬ企みを進めていたらしい。だから、水戸黄門がその問題に口を挟むと困るので、水戸黄門を失脚させる必要があった。具体的には、水戸黄門と当時の水戸藩主・徳川綱條の仲を裂こうとした。それで水戸黄門が陰謀阻止のために紋太夫を誅殺した。矢田に限らず多くの作家がこの仮説に基づいて小説を書いている。吉川英治もだ。『梅里先生行状記』という小説が青空文庫で読めるんだが、やはり黒幕は柳沢吉保だった」
「柳沢吉保ですって?」
 と言ったのは、いま病室に入ってきたばかりの看護師の平塚さんだった。立眼関の検温の時間だったのだ。
「ご存知なんですか?」とわたしが訊いたら、
「ええ、知っていますとも。とんでもない極悪人です」と平塚さんは吐き捨てるように言った。「陰謀の裏にはいつもこの男がいるんです。全国の悪人の頂点にいて、水戸藩の藤井紋太夫も柳沢の手下でした。藤井と柳沢は水戸藩の乗っ取りを企むんですが、黄門様の活躍で失敗した」
「藤井紋太夫も知ってるんですか?」
「ええ、知ってます。水戸黄門ファンなら常識です」
 と平塚さんは言い切った。
 ひょっとして、知らなかったのはわたしだけなのかもしれない。水戸黄門なんてこれまでちゃんと見たこともなかった。
 平塚さんが引き揚げてから、わたしは立眼関に訊いた。
「で、どうなんだい、実際のところは?」
「陰謀論だからね。フリーメイソン、イルミナチ、最近ではQアノン。察しはつくよね」
「まあね」
「柳沢と藤井紋太夫に接点があったかどうかはわからない。しかし、鈴木氏の本に、将軍徳川綱吉の内意を藤井紋太夫が水戸黄門に知らせたと書いてあるから、まあ会っていても不思議じゃない。しかし、世継問題の件はわからない。水戸黄門と柳沢吉保、さらに徳川綱吉との関係を詳しく調べてみないと。そこで君に頼みがある。その関係の本を図書館に予約しておいたから、取りに行ってほしい。いいかな」
 わたしが快諾したのはいうまでもない。

(つづく)

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