連載小説「水戸黄門 千手殺人事件」(1)
木本 博喜 (Hero)氏に捧ぐ
1
「何だって? 水戸黄門が起こした殺人事件を洗い直したいだって?」
わたしのびっくり仰天した顔を見て、名探偵・立眼関松彦は愉快そうにくすっと微笑んだ・
「ああ、そうだ。それで君に手伝ってもらいたい」
「いいけど、何を手伝えばいいんだい?」
「図書館に行って予約した本を借りてきてくれればいい。あと、返却も」
そんなことなら他人に頼まず自分でやればいいだろうと思われるかもしれないが、現在の立眼関にはそれができないのだ。なぜならいま彼は入院中だったからだ。病名は心筋梗塞。チェーンスモーカーとして知られた彼だが、その莨は長年に渡って彼の体を蝕み、動脈硬化を引き起こし、ついに心臓の筋肉に酸素や栄養を送る冠動脈を詰まらせたというわけだ。
「そのくらいならお安い御用さ。ただ、国会図書館だけは困るよ。遠いし、手続きが面倒だ」
「国会図書館はないよ。貸し出し不可だからね。逆に、君が使いやすい図書館を教えてくれ」
わたしは自宅に一番近い図書館を教えた。
「ところで水戸黄門が起こした殺人事件ってなんのことだい?」
「水戸黄門が自分の寵臣を斬り殺したんだ」
「まじで?」
「ああ、まじだ」
「まあ、江戸時代だからなあ。理由は何だったんだい?」
「諸説あってね、それでちょっと調べてみようと思ったわけさ。体の前に頭のリハビリだね」
「しかし、なぜ水戸黄門? いや、これまで君の口から水戸黄門だとか鞍馬天狗だとか、そういうのを聴いたことがなかったから」
「平塚さんだよ」と立眼関は言った。平塚さんとは女性看護師で、年齢は――直接本人に訊いたわけではないので、あくまでこちらの見立てだが――三十代後半か、四十代。体型はふくよかだが、仕事は手際よくテキパキとこなしている。「ぼくが退屈しているのを見て、テレビを見たらと薦めてくれたんだ。しかし、ぼくはテレビは見ないだろう。とくにワイドショーなんか、不安や怒りを煽るばかりで見てて気が滅入ってくる。そう言ったら、ドラマだったらスカッとしますよ。とくに時代劇の、水戸黄門がよろしいです。正体隠して諸国漫遊中の黄門様が旅先々で悪家老や悪代官、悪徳商人の不正を知り、事件解決に乗り出す。そして最後は、黄門様が印籠を見せ、悪人たちが土下座する。これには毎回胸がすく思いです、って」
「で、見たのかい?」
「見ないよ。でも平塚さん、それから毎日、水戸黄門の魅力を話してくれるんだ。頼みもしないのに」
「それは迷惑だな」平塚さんが張り切って立眼関を水戸黄門ファンに変えようとしている姿を想像してわたしは苦笑した。
「そもそも時代劇の水戸黄門は虚構だからね」と立眼関は言った。「全国行脚なんかしていない。あと、助さん・格さんも、モデルはいるみたいだが、実際とは違う。風車の弥七、うっかり八兵衛、かげろうお銀にいたっては架空のキャラクターだ」
「そうかもしれないが、平塚さんの考える水戸黄門のイメージが日本人の大多数の水戸黄門のイメージだよ」
「まあね」
「しかし、平塚さん、よく水戸黄門本人の殺人事件のことを知っていたね」
「平塚さんが教えてくれたんじゃないよ」
「じゃあ、誰が?」
「長沢先生さ」
長沢先生というのは循環器内科の医師で、立眼関を施術した人、つまり命の恩人である。髪は真っ白だが、顔はそう老けて見えない、まるで昔の香港カンフー映画の師範みたいな見た目である。
「平塚さんと違って、長沢先生は水戸黄門に批判的でね。水戸黄門は日本の右翼の源流だっていうんだ」
「え、そうなのかい?」
「右翼の歴史を遡っていくと、水戸学に辿り着くらしいんだ。その水戸学をはじめたのが水戸黄門こと徳川光圀ってわけさ。事実、明治維新から戦前にかけて愛国者の鑑としてさかんに本に取り上げられた」
「それは知らなかったな。時代劇の水戸黄門が好々爺のイメージがあるだけに。しかし、それを知ったら、水戸黄門が人を殺したってのも不思議じゃないかな。そういえば桜田門外の変を起こしたのも水戸藩士だったよね」
「そう。つまり水戸黄門には二つの顔があるわけだ。はたして、殺人事件をおこしたのはどちらの水戸黄門だろう。どうだい、協力してくれるかい」
個人的にわたしも興味があったので、「もちろん」と快諾した。
(つづく)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?