『それ』を何と呼ぶか
*注:
一部の人にはトラウマを抉る記事かもしれません。
ダメだと思ったら、お読みにならないで下さい。
今日は特に体調悪いから、本気で書きますね。
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中学一年生から高校一年生の半ばにかけて、三年あまり、私は寮生活のなかで、断続的な虐めを受けた。
虐めから逃れるほんのつかの間、それは、次の虐めの対象にならないための、文字通りのサバイバルであった。
あれはいったい、何だったのであろうか。呆然とするばかり。
今でもうかつに気を抜いてしまえば、私は、不意にそこに戻されてしまうような、そこは、地獄である。
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学校やコミュニティにおける、壮絶な状態に対することばとして、「いじめ」や「イジメ」などとは、あまりに当を失した軽薄さである。ふざけるな、と。
せめて、私はそれを「虐め」と書く。
今は暴行、傷害、などと言い換える人もいるようだが……。
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朝、誰よりも早く、逃げるように身支度を済ませて、一番に教室に行き、まずは前後の黒板一面に書かれた私の渾名――ある生き物の名前だった――と中傷を念入りに消し、机に置かれた、入れられた嫌がらせを処理し、掲示板の成績表の私の氏名に突き刺された画鋲を抜き、あるいは爪で削られている場合は、その成績表を引っぺがしてゴミ箱に捨て、そのまま机で自習をしていると、奴らがつるんで喧しく教室に入ってきて、あれー、何かキモい生き物がおるやん、とケタケタ笑い、さっき消した黒板に、徐ろに侮辱の数々を書き、全身が震えて身動きできない私の周りに、わざとらしく寄ってきてくだらない話をし、他の奴らも消極的に同調するように、その落書きを見て笑い、誰も何もせず、学級担任の姿が見えると、遊戯のように急いで黒板を消し、四方からクスクスと私への嗤い声が聞こえ、そのように何も無く始まる一日……
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このような『体験』に、何か適切な名称はあるのだろうか。
このようなことが、24時間逃げ場のない寮で数年にわたり続き、親にも言えず、誰にも訴えることができず、ただ石になりそこに居ることしかできない、このような『人生』の一頁に適したことばは、どこかにあるのだろうか。
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あのころ、私はなにを思っていたのだろう。
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強く覚えている shot は、中二の二学期、おそらく紅葉の色と金木犀の匂いから、10月頃だろう。
剣道部だった私は、なぜか防具一式を失くした。進学祝いにと、祖母が買ってくれた上物だった。それは、なぜか校庭の端のドブの中に落ちていた。
その後、あの防具をどうしたのだか、まったく覚えがない。ただ、高校生までは使っていたから、何とかしたのだろうが。
死にたいなあ、としみじみ思った。でも、死にたくないなあ、もったいないもんなあ、とも思っていた。
死なないための方法をいくつか編み出したのを覚えていて、ひとつは、とにかく高校の卒業式を頭に描くこと、もうひとつは、(進学校とは思えないほど)人気がなかった図書室――高校生側の校舎にあるから、少なくとも酷いことにはならない場所だった――に籠ることだった。私がいまも本を貪るように読むのは、この時の惰性だと思う。
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この頃、防具の件の少し後、虐めの集団でいちばんやかましく、性質が悪かったひとりを、すれ違いざまに全力で殴ったことがある。いわゆる、本気でキレたのだった。
歯が2本折れ、目の中でコンタクトが割れた。私はおかしいほど、何にも思わなかった。親同士が話し合ったような記憶がおぼろげにあるが、どうだったか。
彼はしばらくして、学校を辞めて地元に帰った。爽快感の欠片もなかった。頭の中で副音声のように、彼には悪いことをしたなあ、と思う。
もっと、殴り殺すべき人間は、この後何人も出てきたのに、と。
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中三の、これも二学期だったか、私は跳躍力が強く、垂直跳びで1m超えだったため、身長はふつうだが、バスケットのリングを掴むことができた。バック宙(いわゆるトンボ返り)も余裕であった。
体育の後、それを何度もせがまれ、次のターゲットにならぬよう、半ば媚びるためにやっているうちに、アイツ跳んでばかりで気持ち悪い、ムカつく、死ねばいいのに、何で生きてんのよ、と、アレがまた始まった。
この光景を、嫉妬、異端視、出る杭、などと、ある程度俯瞰して見られるようになったのは、三十歳をはるかに越えてからだった。
それまでの間、私はこの不条理をどのように deal していたのか、見当もつかない。
毎日毎日、休み時間、トイレに行けば、跳べよ、宇宙の果てまで跳んで消えろ、と廊下の向こうから叫ばれる。他のクラスからも嗤い声が聞こえる。渾名のコールが起きる。画鋲が投げつけられる。
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このようなことには、たとえ始終死にたい、殺したい、と思っていたとは言え、何とか耐え抜いたようだ。本当によく頑張った。
いちばん辛かったのは、父母参観の日に、爪で私の名前を削り取られた成績表や当番表を、父母に見られたことだった。
未だに分からないのが、なぜ、これがそんなに辛いのか、だ。
四十を越えた今でも、似たような状況を設えられたら、条件反射的に、親に対して「ごめんなさい」と感じて、体が竦んでしまうだろう。
書いていて唐突に思ったが、これらの虐めの日々、自分の辛さも相当であったが、それと同様に強かったのが、これを親に知られてはならない、絶対に隠さねばならない、合わせる顔がない、という不合理な感情であった。
ここにも、私の世界不適応の鍵が、まだ何かあるのかもしれない。
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半年以上、何も変わらず耐えて、耐えて、帰省の後もおくびにも出さずに帰寮し、同じ高校に進学し、ちょっとした心境の変化からしばらく勉強に本腰を入れてみた。
5月の全国模試でトップクラスに入り、何かが変わるかと期待したが、やはり私の名前は爪で削られるだけであった。
次の帰省の時、我慢の糸が切れた。
帰寮前になっても私は部屋に籠り、戻らないと親に伝えた。バカみたいに涙が出て止まらなかった。ずっと虐められていることを伝えた。意味もなく、ファミコンの野球ゲームをしていた。それが止められなかった。親は、何も言わずに寮に電話してくれ、私はそのまま家に居着いた。量の荷物も、親が回収してくれた、ような気がする。覚えていない。
向こうでその後、何があったのかは知らないが、2時間かけて通学するようになり、嘘のように虐めは収まった。(もっとも奴らには、何ひとつ指導もペナルティもなかっただろうと思う。そういうゴミのような学校だ。)
まるで、関知せぬ遠いところで戦が始まり、戦が終わったような、実感の無さであった。
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戦、と書いた。
確かに、これは私の戦であった。
偉そうに述べれば、戦とは、単純な死の恐怖ではない。
こころの off を禁じられる。
自由意思などないと刷り込まれる。
自ら終わらせる途が見えない。
何も信じられなくなる。
このような日々に、除隊まで、あるいは終戦まで、自身の生命への執念が勝てるかどうか。
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最後にもう一度、最初の問いに戻る。
程度の差こそあれ、この国で、誰にも知られぬまま、あるいは見ぬふりをされながら、きっと何万人もの子どもが何の見返りもなく受けている、このような仕打ちを表現すべき、何か適切なことばは、どこかにあるのだろうか。
あるいはまた、そのようなことばをまったく不要にするだけの努力工夫を、かつての子どもであるいまの大人は、少しでも進めているのだろうか。
誰も罰せられない『聖域』で受けた心の致死傷を、死ななかったという理由だけで、自己流の血止めだけでごまかし、やり過ごし、あとは普通の顔して生かされる。
そんな人を、これからも変わらず再生産し続ける世の中など、本当に勘弁してくれよ、と私は思っているらしいのだ。
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