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試合は最後まで、そして――Entangled Towatd the End, And Afterwards
【注: 長文です。4000字以上です。何か妙に面白いとは思いますが、長文でごめんなさい。】
AbemaTV のおかげで、サッカーとはかくも面白い競技だったのか、と、私しりんは目下ハマっております。
蹴り合う対手がいてこそのサッカーですが、極力対手に蹴らせたくないのもまたサッカーなのですね。
それに比例して、私しりんは、書くという競技がこんなに奥深く、趣味に溢れたものだと、今更ながら感動しています。
「書くという競技」となぞらえましたのは、書き手と読み手の間にある関係性にも、サッカーのパラドクスと非常に似たものを感じるからです。
仮想であれ実在であれ、ある読み手(層)を想定せずに物は書けない。(書けはするでしょうが、それはロビンソン・クルーソーの備忘録以上にはならないように思います。)
書き手の前提として、まずは読んでほしいし、何かを感じさせたい、あるいは書き手の意図や心境を分かってもらいたい。
それがなければ、そもそも書くことなど続かないだろうし、詰まらないはずだ。
だが同時に、書き手には、どこかしら読み手に容易には尻尾を摑ませたくない、摑まれたくない気持ちがあるように感じます。
――サッカーで言えば、相手の力を正確に見積もった上で、相手のパフォーマンスも高めながら素晴らしい試合をし、かつ勝負に勝ちたい、といったはなはだ欲深い願望です。
このことについては、paraphrase する必要があるかもしれないです。
*註: この paraphrase(① - ⑦) 、思いのほか長くなってしまいました。
よほどでなければ流し読みか、読み飛ばしていただいて問題ありません。
よほどであれば、お目通しいただければありがたいです。
*
①
はじめのはじめに、『語と文法(命題)の定義に厳密を期すことにより、ことばは完全に思念を copy できるはずである』という理想が、近代論理学の根幹であると私は捉えています。
ヒルベルト・プログラムはゲーデルの第2不完全性定理により致命的な破綻を来たし……と話し出せば止まらないので、そのような方向から、私は20世紀からウィトゲンシュタインの僕であります、と一旦はまとめます。
②
つまり、とさらに端折りますが、世界(事象)とことばの一対一対応とは、――仮にそれが可能だとしても――夢物語なのだ、という、それ自体はわれわれが常識として認識している結論に至ります。
③
思念とは、ことばの介在によりはじめて思念たりうる。にもかかわらず、思念を完璧に言語化することは(ほぼ)不可能だ。
つまり、思念は常にそれ自体で完璧なのに、完璧な文章などは存在しない。
この逆説によって、書き手は、思念とことばとの距離を――トロンボーンのスライドのように――無段階に変化することによって、己の思念の伝達精度をある程度調節 adjustment することが可能である、というこの競技の醍醐味を産み出す。
こう、私は現在考えています。
④
そのひとつとして、暗喩を挙げてみます。
「エムバペはサッカー界の神だ」
という発話について、これを文字通り捉える読み手は少ないはずです。比喩の adjustment が易しい状態です。
神(→創造者→全能の存在)→無敵の競技者、と極めて容易にそのトラップを破ることができます。
上の図式で言えば、比喩から意図までの「→」が濃い/少ない状態です。
一方、
「エムバペはサッカー界のソーセージマフィンセットだ」
という表現は、もはや何かを正確に伝達する意図自体を疑う水準で、晦渋なものです。つまり比喩の adjustmentが厳しい状態です。
ソーセージマフィンセット⇢?
どこまでゆけば、一定以上の精度で書き手の意図を酌めるのか、まったく読めない。
これは「⇢」が薄い/多い比喩です。
この中間にある表現が、
「エムバペはサッカー界のシモ・ヘイヘだ」
とか、
「エムバペはサッカー界の LAWS だ」
とか、こんな感じかと思います。
読み手を措定した上で、比喩の adjustment を試行錯誤してみた表現です。
⑤
④で扱った隠喩については語句レベルの adjustment の一例ですが、文と文の論理結合の距離も、同様に書き手が恣意的に選別できる adjustment のひとつです。さらに、扱う素材やテーマそのものの水準もまた、adjustmentのひとつになり得ます。
書き手が、読み手(たち)の予備知識なり想像力なり、すなわち読み手のスキーマにどの程度の信をおくか。
懇切丁寧な adjustment は、読み手(一般)への信頼が低い場合にとる戦略です。
より多くの人に分かりよい一方で、スキーマが高い読み手にとっては、非常にくどく単調で、退屈なものになります。すぐに尻尾を摑まれます。
これをサッカー競技になぞらえれば、基本には忠実だが、対手にボールを奪われやすいドリブル/パスワークです。あまりの丁寧さに対手が痺れを切らし、試合を棄てて帰ることもあり得ます。
一方、晦渋な adjustment は、読み手(一般)のスキーマへの信頼度が高い場合の文体です。
簡潔、かつアクロバティックで、スキーマが高い読み手にも尻尾を摑まれにくいが、そうでない読み手にとっては極めて分かりづらく、あるいは読めないものです。サッカーで言えば、高度で戦略的なパスワークや突破を見せるが、度が過ぎて、対手が戦意喪失、試合を放棄して帰ってしまう、といったケースでしょう。
⑥
試合放棄? と呆れられるかも知れませんが、これは書き手と読み手の間では非常によくあることです。案ずるはこればかり、と言っても過言ではないかもしれない。
読み手ひとりひとりではなく、不特定の読み手予備軍の層を mass として捉えた際、書き手が自作を十全に『読まれる』ためには、mass に対する adjustment を見誤ってはならないのです。
読み手(一般)のスキーマを読み違えてはならないのです。
⑦
ここでこそ、サッカーでの喩えが有効でした。
ワールドカップではそんなことはあり得ないが、読み手(=対戦対手)は、国の代表チームとは限らないのですよね。
びくびく。
Adjustment を緩く取りすぎてボールを奪われまくれば、試合は成立しても試合には惨敗する(著しい場合は没収試合にさえなり得る)。
Adjustment を厳しく設定しすぎると、チームのプレイの質は高まるだろうが、あまりにボールに触れない対手が戦意を喪失し、11人残らないかもしれない。誰もグラウンドにいないかもしれない。】
*
Mass としての読み手のスキーマをできるだけ的確に測り、それに応じた adjustmentを行い、文・文章をこしらえてゆく。
さっくりまとめると、それが私を魅了しつつある「書くという競技」のコアです。
*
ちょうどいま、私の眼前で見事な試合が行われています。
準々決勝のブラジル vs. クロアチア です。
後半35分、いまだスコアレス(0-0)、退屈かと言えばそんなわけはなく。
クロアチアの組織的で緻密な守りが、攻めのブラジルにあと一本を蹴らせない。
クロアチアを物の書き手に喩えれば、最強ブラジルに対する adjustment が見事に work しているため、読み手の力量を利用した会心の作品を創りつつある、と言えそうだ。
これは惚れ惚れします。
こんな作品を書きたい、読みたい。
*
ただ、書き手としての私にはまだ、非常に多くの分からないことがあります。
そのなかで最も大きな懸案は、非=職業ライターである私にとって、いい試合とは、あるいは勝ちとは何であるか、です。
物を書き、より多くの『スキ』がつけば、それは嬉しくないはずがない。
だが、数とは本当に気まぐれなものだとも思っていて、そうなると私は、
最後までひとりでも多くの読み手を引っ張って、その流れで忖度なく『スキ』と押してもらった
というような、こちらから分かる術もない、かつ他力本願な状態を望んでいるのだろうか?
……。
……。
*
いま、たった今。
延長前半が終わる直前。
天才ネイマールが、ほぼ完璧な個人技でゴールを決めました。この膠着をほぼひとりで打開しやがりました。
自ずと鳥肌が立つ。
*
非=職業ライターの私にとって、読み手との関係は仮初めに過ぎないのだろうか?
*
あああああ、決めたペトコビッチ!!
ディフェンスを利用して追いついた、追いついた。
やばいやばい、すごすぎる。
止めた!まじか。やば。
ああ、終わった、PKだ。
クロアチア、またPKだ。
あかにむらくらなねひなな外したわ、勝ってまう、クロアチア勝ってしまうよ
勝っちゃったネイマール泣いてるわうわーこれは、いいもん見た、神はネイマールじゃないねん、モドリッチ!!ぎゃーあーわー
*
ほらな、ちげーよと。
書きながら、だいぶ前から思っていたんですけど、本当、私はとんだバカだなあ。
臆病者だ。
ひどい愚鈍だ。
そもそも、なぜ読み手が敵などであるもんか。なんで闘う?
書き手にとって、読み手は共闘の戦友です。
私が書き手でも、読み手がいてこそ書くのならば、それはみんなで書いているのです。
それなら書き手は、誰と闘い誰を倒すのでしょうか?
は?なんで闘う?なんでそんなに勝負したいの?
120分とPK、これで試合は終わりである。闘いは終わりだ。
ノーサイド:
その瞬間に『ワールドカップ史上に残る激戦』という新たな remark が、両チームの歴史に附与されたじゃないか。
この2時間強が、いったいどれだけの――私を含めた――『ニワカ』を『コアなサッカーファン』に変えただろう。変えてゆくだろう。
それは文字通り、計り知れない。
このたったひとつの試合より魂を揺さぶる何かを、たとえ私のすべての引き出しを全開にしてでも、たとえ戦友たちに何かを借りてでも、果たして私(たち)のことばは紡ぐことができるだろうか?
*
……と、やはり私には書かないと分からないことばかりで、だからぽんこつの私は、呆れるほど書いて書いて書きながら、次の「書く」を探ってゆくようです。
ブラジル vs. クロアチア の死闘、急転、奇跡、感銘……
この試合にかくも高揚し、魂を揺さぶられたことで、書き手としての私にとっての value とは、読み手を高揚させたい、あわよくば魂を揺さぶりたい、というものらしい、とようやく私は気づきつつあります。
そしてこの希求のかたちは明らかに、これまで私が書き手として演じてきた、演じようと腐心してきた芸風とは異なることに、まずは私がひどく驚いています。
とはいえ、書いたものを改めて読んでみると、この分析は非常にしっくり来るので、ああ、私はやはり突き詰めればシニシストを気取っているだけの、根はごく単純なエンターテイナー志向なのだと分かってきました。
ことばのトロンボーンのスライドは、そのために練習し、鍛え、駆使してみたいのだと分かってきました。
*
後書きになる。
ふだんからこの手の話をする相手は皆無で、あえて実験的に饒舌な『作品ではないもの』を試してみました。
自意識と自己のはざまでこじらせている私にとっては(すごい試合も観ながらということもあり)、かなり手間と体力は食いましたが、楽しかったです。
と同時に、ああ、私は誰かと心ゆくまで書き物談義がしたいのだなあ、と痛感しました。
よければ今度、だれか付き合って下さいね。
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