雑文/1999、セミ

大学を辞めた夏、ぼくは日本にいないことを決めた。

学生時代、某・国際協力機構関係の活動に熱中していたので、当時、さまざまな国に、さまざまな知人友人がいた――ぼくに友人がいたとは、おやおや、夢ではなかろうか。

7月のある日、仲がよかったソウル大学のJ君に、メールで、そちらに行くけど遊べるかい、と送ったら、わりとすぐに(あるいはMSNのメッセンジャーだったか?)、あたりまえじゃん、いつ、と返ってきた。
ぼくは、パスポートと少しの現金、あとは MasterCard があったから、思いつきで、なら今日こっちを出発するわ、と返した。

レスポのナップサックにちょこっと荷詰めし、品川駅から「ムーンライトながら」に乗った。その日は姫路城公園で野宿し、ホームレスのおっちゃんにジョージアの缶コーヒーを恵んでもらった。

翌日、広島駅で一つ下の友人のヤスと待ち合わせ、下関駅で降り、書類をちょこちょこ書いて、ニンニクマヌルの匂いとしか言えない関釜フェリーの二等船室で、焼酎そじゅでつぶれた。
見知らぬおっちゃんアジョシたちと花札で遊んだところまでは憶えている。

翌日。猛烈な二日酔いのなか、プサン駅でコーヒーを飲み、そのまま2人でセマウル号に乗った。

ソウル駅、まだドーム型の古い駅舎で、政治的なあれこれは抜きに、とても美しい建物であったが、2年ぶりに会うJ君と落ち合って、ヤスを紹介し、そのまま新村シンチョン参鶏湯サムゲタンを食べにいった。
ソジュ、ソジュ、そのままその夜、舗装馬車ポジャンマチャ、つまり屋台飲み屋、に行ったのか、翌日のことか。

とにかく、ここから2ヶ月弱、ソジュと麦酒メッチュと韓国煙草の 'THIS' に塗れて、それはそれは、ものすごい日々であった。

南大門ナンデムンの路地裏のラブホにヤスと2人で泊まって、たしか、1泊1部屋15000ウォン(約1500円)、もう少し安かったかもしれない。
すばらしく冷たい水シャワーもついて、大変お得な日々であったが、ヤスもぼくも、身体中がなんかかゆい虫に食われたのは、まあ若いし、ご愛嬌。

ここからは、ちょっと、さすがにどうなのか。
まあ、時効だ。

毎日毎日、昼は2人(たまにJ君もセット)で歴史観光。そこは趣味が合うのだ。大抵の史跡と博物館には、足を運んだ。

夜は別行動で、ヤスは玄人がいるところへ遊びに出かけていたし、ぼくは、飲み屋で大学生を引っかけて、毎晩飲み歩いていた。
ほとんどは韓国の女の子だった。日本からの観光客と飲んだことも数回あったし、ドイツの大学生のときも、拙いドイツ語ながら、なかなかいい感じであった。

まったく、飲まない日はなかったし、誰かと抱き合わない日はなかった。

8月の末、か、9月の頭。

ヤスは先に帰っていた。
もうそろそろ、実家にも退学の通知が届いているだろうと思うと、すべてがしゅん、と色あせ、虚しくなった。
もともと、虚しいものだ。

いい歳して、遊び歩いて、大学も辞めちまって、結局何も分からないまま、と自己嫌悪の塊になってしまった。

ふと思い出し、同い年の、ソウル大哲学科のCにメールした。
彼女は英語が堪能だったから、韓国語に疲れ果てたぼくは、彼女のことを思い出したのだ。

翌日か、その日の午後か、Cは、大学近くの喫茶店で会ってくれた。

何を話したのか。

サルトルだか、フーコーだかの話、あれは、英語だったか、韓国語だったか、何だか日本語で話したような気もする。
それから、お互いの政治批判。彼女は、とても communism に興味があった――あちらではご法度なのだ。
Cの彼氏が、数ヶ月前に自殺した話は、その前、いや、その後、屋台に行ったときだ。
ぼくには悪癖があって、うまくお悔やみが言えない。今もそうだ。ただ、なぜだろう、ぼくは彼女に、ごめんミアネ、ごめん、と謝っていた気がする。
Cもまた、酔っ払って、ぼくに何度も何度も謝っていて、不思議な、そこだけ、オデンを食べながらソジュを飲んで、スポットライトが当たるように、覚えている。
まったく、謝る以外に、ろくなことばなんかないのだ。

Cとは、抱き合わなかった。

ふたり、地下鉄で帰って、別れ際に本をくれた。新品じゃなくて、ごめんね、と、それはお坊さんの 만행 とかいう人の、自伝、修行の話で、ずっとあとで気づいたのが、巻末に「いつも太陽でいてくれて本当にありがとう」と書かれていた。

あの頃のぼくはいつも、世界中の陰を背負ったような、偉そうな気持ちだったから、それを読んでも、正直、なにも思えなかった。

それからすぐに、またセマウル号で、関釜(今度は釜関)フェリーで、たしか新幹線で、アパートに帰ると、郵便受けの新聞がえらいことになっていて、大笑いした。

あの年は、韓国のセミの声しか聞かなかった気がするな。
信じられないほど、とても喧しくて、あのセミの声が、いま無性に懐かしい。

あのセミの音、教保キョボ文庫(本屋だ)、部隊プデチゲ、海苔巻き、歴史の学び、1000ウォン(100円)で買ったニューバランスの偽物、ヤス、J君、優しかったたくさんの女の子、そしてC。

あの時、どのひとつが欠けても、ぼくは確実に、生きていられなかった。

こんな古い話を、なぜ思い出したのか、ちっとも分からない。
ふと、これなら書けると思った。

あんなに陰のつもりだったぼくは、20年以上経って眺めてみると、太陽みたい、など、それはどうだか、とにかく、眩しいほど生きていた。

Cが自ら命を絶ったのは、年が明けてすぐだった、と、J君に聞いた。

そうだろうな、と、それが最初の感想で、そんな自分がどうにも嫌で仕方なかった。お悔やみを、うまくできない。

あの夏、Cも、眩しいほど生きていたのだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?