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日記/ドンマイ

熱く甘い恋がしたい、と思う。恋など、今生はもう懲り懲りだ、とも思う。恋とはつまり、まさにこの学習過程なのかもしれない。この歳、この身分で、こちとらの勝手な心的欲求に、他所様をむざむざ巻きこむのは、きわめて面倒くさい不適切である。残念で順当なことに、あの十代の狂気に近い恋情は、いくら深くなめらかな腹式呼吸に勤しんでも、もう二度と戻ってはこない様子だ。いま思うと、あの狂気の少なくとも一部は、自己肯定感の猛烈な希求であり、本当に申し訳ない、と平謝りをする用意はできているが、とはいえ、何万回リセマラしても、ほのかに恋焦がれる内気な男の子、恋なんて叶わなくってもいい、そんな男の子にはなれなかった、と断言する。それは即ち、なんとかコンプレックスのなんとかがなんとかして、と、そういう眠い話は、弊日記の埒外である。いまも本質はあまり、ほとんど、まったく変化しておらず、バカボンのパパの齢を超えたいまもなお、わたしのなんとかコンプレックスのなんとかは、なんとかしようとする。要は、身も世もなく、身悶えするほど、好かれたい、認められたい、褒められたい、スペシャルでありたい。それと、わたしの好きたい、認めたい、褒めたい、スペシャルたらしめたい、が均衡しない。つまり、わたしは、きわめて重たい・・・のだ。これはまた、すばらしい告白である。明白になった事実は、わたしは、わたしを好いておらず、認めておらず、褒めず、わたしのスペシャルではないのだ。喉の渇きに、海水を鯨飲する錯誤。わたしを好かないわたしに、他所様を好けるかは・・。認めてほしいから、まず認めの姿勢をアピる。褒めてほしいから、まず褒めの姿勢をアピる。やなもんだ。今夜はまた、えらく露悪的な日記だ。恋とは、この自愛、自己承認の鏡像であるが、かがみよかがみ、と何度お伺いをたてようと、残念、それはガラスだ、お前ではない。真相は、こうである――熱く甘い自己承認・・・・がしたい、と無性に思うが、自己承認・・・・など今生はもう懲り懲りだ、とも思う。自愛、自己承認などのトピックスは、弊日記の守備範囲外のため割愛。せめて、ドーミーインから拝借した、この無料のルームスリッパに対する気持ち程度には、わたし自身への気持ちを整え、上げてゆくことが求められる。と書いて三時間以上、スマートフォンを握ったまま、わたしは寝ていた。熱く甘い熟睡がしたい。そして朝。起きて、ただ呆然としている。なんだこれ、これはよほど眠かった、おおよしよし、譫言うはごと日記。だが、日記には相違なく候。

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