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shift innovation #33 (FabCafe Kyoto hack)

今回は、「あなたは『無』を買いますか 『よくわからないけど、なんかいい』の価値を計測するワーキンググループ」のイベントに参加しました。

ウェルビーイングに「感性と身体性」からアプローチするためのヒントを得られるトークシリーズ、第2回。主観的な身体感覚にやどる創造性とは如何なるものなのでしょうか。認知科学や身体論、哲学を専門とする研究者たちとともに考えます。(共催 関西大学「身体性とウェルビーイング」研究チームKEWRT、株式会社ロフトワーク、FabCafe Kyoto)



【テーマ「#2数字でわかるもの、わからないもの、アナログな身体感覚とその精度」】

「Sensing(センシング)」という言葉があります。テクノロジーやマーケティングの領域では、センシングとは「周囲の環境や市場を情報化し、定量的な方法で処理・認識すること」こととして扱われますが。本来的には、「感知する」という意味を持っており、これは人間が主観的・即時的に世界を理解する感覚体験を表すものであります。同じ言葉を使っても、技術・ビジネスにおける「センシング」と人間の感知能力、感覚体験には何か大きな差異が潜んでいるようにも見えます。

この人間の感覚体験は、デジタルテクノロジーの高度化が進む中でも、現時点では完全に再現することはまだ難しいとされています。では、人間にしか「センシング」できないことは何なのか? 数字にできない、測れないことを捉え、またそれを他者と共有する……そのヒントを読み解くキーワードが「身体性」。「どう計測するか?」を考える前に、まずは「そもそもすべてを計測することなんてできるのだろうか?」と疑ってみる。そこからあらためて身体性のもつ可能性に目を向けてみましょう。


【スピーカー】

スピーカーである関西大学教授の石津智大氏、関西大学准教授の小室弘毅氏、文筆家の土門蘭氏、フォトグラファー(海女)の大野愛子氏のトークに関して、個人の解釈を大いに踏まえた妄想(感想)を紹介させていただきます。


【言葉と身体性(五感)】

言葉と身体性(五感)の関係性について、人から発せられる言葉が生きた言葉であるかどうかは、その言葉が五感から得た言葉であるかどうかによるものであり、例えば、小学生の時、「プールに入った時の塩素の匂い」という言葉だけであれば、その意味は言葉そのままの意味を表すこととなり、それ以上でも以下でもありません。

一方で、実際に五感に基づき体験したことであれば、小学生の時に実際に体験した、はじめてプールに入る時の水に対する怖さ・水の冷たさ・その時の匂いなどが想起されることによって、「プールに入った時の塩素の匂い」という言葉には、言葉だけでは表現できない感覚が含まれていることとなります。

このように、五感から得た生きた言葉である「情報化」と既に情報化された言葉を編集した「情報処理」とは異なり、今の世の中は、既に情報化された言葉(テキスト)を編集しているのみであるため、AIに代替される可能性があることから、これからは、ますます五感から得た生きた言葉である「情報化」が重要となってきます。(養老孟司氏 引用)

そして、五感から得た生きた言葉である「情報化」は、既に情報化された言葉を編集した「情報処理」とは、全く異なる情報量であり、人生における体験などを踏まえた「情報化」の情報量の方が、圧倒的に多いことからこそ、五感から得た生きた言葉は、豊かな表現になるのではないかと思われます。


【「無」(余白)の価値】

五感から得た生きた言葉である「情報化」は、情報量が豊富であるということにおいて、大きな価値があると捉えた場合、「無」は情報がない状態であることから、「無」の状態には価値がないこととなります。

一方で、例えば、ワグナーの曲には、無音の状態が数秒間続く箇所があり、この「無」の状態が何ら価値がないものであるかというと、この無音の状態は、この前後の音(文脈)に基づき、鑑賞者が想像力を働かせるによって、意味を作り出すことができるものであることから、「無」の状態に価値がないというものではないこととなります。

そして、この「無」の状態において、想像力を働かせることによって、脳が活性化している状態を測定することができることを踏まえると、脳が活性化している状態をAIが解析した上で、その状態を学習させることによって、AIが「無」の意味を理解しているかは別として、文脈の中に「無」の価値を創り出すことができるのではないかと思われます。(妄想)

ただし、人間にしかできない身体性(五感)により、多くの情報量を感知する上で、例えば、科学の進展によるVRが発信できる情報とは、視覚情報・聴覚情報が主であり、全ての五感を発信できるものでないことから、科学の進展をもってしても、人間にしかできない身体性(五感)により、感知できる全てを補完できるものではないため、AIが人間にしかできない身体性(五感)により、価値を最大化させることは難しいものであると思われます。


【「無」を買う人はいる】 妄想

イベントのテーマである「あなたは『無』を買いますか」に関して、「無」の状態に対して、個人における体験などにより、想像力を掻き立てることで、余白を埋めることによって、大きな価値を生み出すことができることから、「無」を買う人がいるのではないかと思われます。

それでは、「無」を買うことができる商品等とは、どのようなものになるのかということですが、例えば、小説であれば、物語の中に読み手の想像力を掻き立てるような豊かな言葉により、余白を作ることによって、その余白に個人の人生(経験)を投影させることで、没入することができることから、小説を読むことは「無」を買うという行為になるのではないしょうか。

また、能楽であれば、余分なものを全て削ぎ落とすことにより、余白を作ることによって、その余白に鑑賞者の想像力が合わさることで、全てが限りあるこの世界に、無限の美を創造できることから、能楽を鑑賞することは「無」を買うという行為になるのではないでしょうか。

これらの商品等(作品)は、商品等(作品)の中に組み込まれた余白に対して、心理的に余白を埋めるという仕組みに基づき、想像力を掻き立てるような余白を作ることにより、特に感度が高く想像力の豊かな人においては、余白をより楽しむことができることから、余白に対して大きな価値を生み出すことによって、「無」も含めて買うのではないかと思われます。


【「無」とAIと人間】 妄想

「無」の意味は、人間にしか理解できないことなのでしょうか。

そこで、AIが「無」の意味を理解し、「無」を作り出すなど、「無」に意味を持たせることができるのかということですが、例えば、AIが抽象画を描くことができると思いますが、抽象画の余白の意味を理解することができるのかというと疑問に思われます。

AIはあくまでも、抽象的に表現されたパターンを具象画に適用することはできたとしても、AIが抽象画の意味を理解した上で、具象画を抽象的に表現することができるのかということを考えると、数値化できない「無」の意味を、AIが理解することは難しい、つまりは、AIは完全に人間の代替となることは難しいのではないかと思われます。

一方で、現在の若者は、タイパを意識し、YouTubeなどでは倍速で視聴することも影響しているのか、沈黙を怖がり、行間を読むことが不得意である、つまりは、「無」の意味を理解することが難しくなっているとした場合、人間にしかできない「無」の意味を理解する、想像力を働かせる、五感で感じとることができなくなり、そして、それらが忘れ去られたとき、人間はAIに代替されてしまうのではないかと危惧されます。

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