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隠し味

*続き

一人でごはんを食べることが好きではない。

味は相対的なものだ。鼻を押さえて食べると料理の味が変わるように、空腹時は食べ慣れたものがいつも以上に美味しく感じるように、味は様々な要素が組み合わさってできている。嗅覚、空腹具合、体調、気温、盛り付け、周囲の清潔さ、昨日食べたものなど、味に影響を与える要素を挙げていくときりがないことが分かる。しかしそんな複雑な味を決定する無数の要素の中でもぼくは「一緒に食べること」が一際重要な役割を果たしていると感じている。

その姿を見てふと思った。美子さんと、ひなたちゃんと、父には、私の知らない時間があったんだな。それはいったいいつだったんだろう。私が、ひとりで家でご飯を食べている時間だったのかな。そう考えたら、口の中に入れた大好きな杏仁豆腐が、なんだか急に味気の無いものになったような気がした。

「水やりはいつも深夜だけれど」窪美澄

Netflixで配信されている「ちひろさん」という映画がある。有村架純演じる元風俗嬢で誰よりもマイペースで自由に生きる主人公ちひろさんが周囲の人たちに刺激と癒しを与えていく「孤独」がテーマのヒューマンドラマだ。中でも印象的だったシーンがある。それは映画後半の女子高生のオカジと小学生のマコトそしてマコトの母3人の食事シーンだ。母は水商売を生業とするシングルマザーでマコトはいわゆる鍵っ子。そんなマコトとちひろさんを通じて親しくなったオカジはある雨の夜にマコトから「家の鍵を忘れて家に入れない。おなか減った。」という電話を受け、急いでおにぎりを作って持って行く。するとオカジが到着したと同時にマコトの母も帰宅し、せっかくだからと、家で焼きそばも一緒に食べることに。するとオカジが突然泣き出してしまうというシーンを鮮明に覚えている。泣き続けるオカジに対しマコトの母親は「私の焼きそば、泣くほどおいしかったか?」と冗談を言うが、ぼくはこのシーンを見ていて、あの焼きそばはオカジにとって本当に”泣くほどおいしかった”のだろうと思った。裕福なオカジの家庭では焼きそばよりも遥かに豪勢な食事が日々テーブルに並ぶ、さらにあの時オカジは晩御飯を食べた後で空腹だったわけでもない。では焼きそばを”泣くほどおいしく”したのは何だったのだろう。それは「好きな人と一緒に食べたこと」なんじゃないか。
オカジの家庭はマコトとは異なり裕福で両親も健在な一方で、亭主関白な夫によって常に緊張感が漂う食卓に笑いはおろか会話もない。そんな食器の音だけが聞こえる食事シーンは息が詰まる。食卓には家族4人そろっているけれど実際は1人が4つ集まっているだけ。清潔で瀟洒な空間で振舞われる作り立ての豪華な食事はそれらに反比例するかのように”美味しくない”ものだったのだろう。そんな毎日を生きるオカジにとって、マコトの家の食卓は「楽しい会話」、「笑顔」、「一緒にいたいと思う人たち」といったお皿には乗らないけれど美味しさにとっては決定的な要素が数多くあり、それらが焼きそばというありふれた料理を思わず涙がこぼれてしまうほどおいしくしたのだろう。逆に言えば、誰かと食事をした時にそれが一人で食べるよりも美味しかったのなら、それはあなたがその相手に好意を持っていることの証明となる。

この世界には、一人漂うように生きることを愛する方もいます。この作品はまさに、一人を愛する人間を主人公に迎えた物語です。誰にも、何にも邪魔されない、干渉しない、影響を受けない、ただただ思うままに生きることを選べたら。そんな生き方が出来たらどれだけ楽だろうか。 しかしながら、生きるそばには必ず誰かがいるのも事実です。

一人の時間を大切にする日常の根底には人の温もりがあるということに、改めて気づける作品でもあるのではないかと思います。各々呼吸のしやすい場所で好きに生きていいじゃないの、と認め合える世界がたくさんありますように。

有村架純 (「ちひろさん」公式ホームページより

食事を共にするということは心の接近でもある。「同じ釜の飯を食った仲」という表現が、長い時間を共に過ごした深い関係を意味するように、
毒が入っていないことを確認するために互いに杯を勢いよくぶつけ、それぞれの中身を混ぜ合わせたことが「乾杯」の起源だと言われているように、
経験を共有すること、中でも生きていくことに不可欠な食事を共にすることは親密な人間関係を築く上で不可欠と言えるだろう。テレビで、女性の前では恥ずかしくてご飯を食べれないという悩みを持つ男の人が「食事をしているときは無防備でそれを見られるのが苦手」だと話していたことを思い出す。番組では女性アナウンサーの前で食べるときに手が震える様子に笑いが起きていたけれど、多くの生き物が餌を巣や安全な場所まで持ち帰ってからやっと口にする様子を見ると、「食事中=無防備」というのは間違っていないのかもしれない。

ぼくは現在まで実家暮らしで家族と食事を共にすることが普通だった。バイト終わりや大学での昼食など時々一人で食べることはあっても一人の時の方がイレギュラー。
しかし前提が逆だったとしたらどうだろう。
食事中は無防備になってしまう、だから「食事を安全のために隠れて一人で素早く済ませてしまおうとする」方が人の(あるいは生き物の)本能に従った自然な行為だったとしたら。そんな無防備な自分を晒してまで心を許した相手と一緒に食事をしたいと望むこと、そう望む相手がいることのほうがイレギュラーなのだとしたら。食事を共にしたいあの人・・・がいることがいかに素晴らしいことなのかが再確認できるはずだ。

ホットケーキを食べたりお手紙を送ったりするような普遍的なことをしていても世界がきらめいて見えるような、他の人では代替不可能な関係のことを、かけがえのない他人同士と名付けていた。

「N/A」年森瑛

「昼食で、また会えるかな?」
「ううん。あたしは彼と一緒に食べるから」

「日はまた昇る」アーネスト・ヘミングウェイ

ぼくの好きなオードリーの若林はラジオで結婚の報告をした時、付き合い始めに食卓に出された手料理(ナスのお味噌汁)をみて「この人は俺を生き永らえさせようとしている!」とふと気付き、食事を与えるという行為に計り知れない愛を感じたと言っていた。かけがえのない他人同士で食事を共にするときそこにはいつもその食事を用意した人がいる。(手料理の場合はだけど。)

料理ができるって、人を幸福で殴り倒せるということです。

「20代で得た知見」F

絵本作家のやなせたかしはヒーローの絵本を作る際に最も根源的な正義を”お腹を空かせた人に食べ物を与えること”だと考え、「アンパンマン」を描いたというエピソードを思い出す。


食事を作り、与えること。ぼくがその行為が含んでいる愛情に気が付いたのは最近のことだった。ぼくはもうそろそろ実家を出る。一人暮らしを始めるということは、一人の時間が増えるということだ。それは今まで一緒に食べていたごはんを一人で食べることが増えるということでもある。

一人で食べる唐揚げは今までよりも脂っこく感じるだろうか。一人でつつくお鍋は今までより色あせて見えるだろうか。よそったご飯は直ぐに冷たくなってしまうだろうか。”隠し味は愛情”なんて聞き飽きた文句もあながち間違いではなかったと思うだろうか。それとも案外すぐに慣れてしまうものだろうか。

一年後どう思っているかはわからない。
けれどやっぱり僕は、
一人でごはんを食べることが好きではない。

愛より夢より成績より家庭科が救ってくれるものって人生の中に、ほんと、たくさんあるって思うよ。
<中略>
孤独になることぐらい生きていればいくらでもあって、ひとりぼっちになることなんて、生きていればあんがい当たり前の出来事なんだと分かってくるけれど、それでも私には私がいるのだということ、そのことも同時によくわかる。ひとりぼっちになろうが、生きていかなければならない。そして生きるということは、別に誰かと一緒にいるとか、家族を作るとか、夢を叶えるとか、そういうことではなくて、ただ生活を重ねていくことだと思う。

「もぐ∞」最果タヒ


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