やさしさクライシス
昔々あるところに一人の青年がいました。彼は自分が嫌っていた人を皆がやさしい人だと褒めているのを聞き驚きました。友達と話している時、彼らの先輩や先生のやさしいエピソードに共感できなかった彼は友達に「それの何がやさしいの?」と聞きたかったのですが、結局口を閉じてしまいました。そのやさしさがわからないのは君がやさしくないからだと言われることが怖かったのです。
月日が経って、彼は大人になりました。やさしさが何なのかはまだわからないままだけど、やさしさというものは受け取った人がどう感じるかで決まるものだから、「形だけまねしてみようかな」とみんなの前で彼は言いました。そんな彼の見様見真似の猿芝居を周囲の人は「上手になったね」「やさしいね」と褒めました。重い荷物を持つ。車道側を歩く。扉を開けて待っておく。公式化されたやさしい行動は一度覚えてしまえば簡単で、誰でも真似できるものでした。彼はやさしいってこんなにも単純で簡単な事だったのかと再び驚きました。昔みんなが話していたエピソードにようやく共感することができる彼は、だれがやさしい人なのかについてみんなと意見が合うようになってきました。彼はそんな変化を喜び、次第にやさしい行動をすること自体が気持ちよくなっていきました。彼の両親や幼馴染は彼のそんな変化をあまり快く思ってなさそうでしたが、その他大勢の彼を褒めそやす声は止む兆しさえありません。むしろ練習を積み重ね、慣れてきた分、やさしい言動はより効果が出るようになり彼は心底満足していました。正解があるなら学校で教科書を使って教えてくれればよかったのに、と悪態をつきそうになっても“やさしい人”になった彼はもうそんなやさしくないことはしません。彼はやさしい人たちの仲間入りを果たしたのです。
そんなやさしい彼は後ろから歩いてくる彼女の為に今日も扉を押さえています。
めでたし、めでたし・・・なのだろうか?
やさしさの定義は存在しないはずだ。行為や考えがやさしいかどうかを決めるのはそれを受け取った人の判断に全面的に依拠しているから。遊びといじめの境界が、愛と支配の境目が、いつでも揺らいでいるように、「ここからここまでがやさしさです」と丸で囲むことなんてできない。
相手がどう思うかがすべて。
やさしさをそのように捉えることはとても誠実だと思う。けれど、それは同時にとても怖いことだ。だからこれまでどこかで見聞きしてきた“やさしい言動あるある“で及第点を獲りたくなるのも無理はない。けれどそれらの”一般的”に確立されたやさしさは、受け取る側にこれはやさしい行為なのだからやさしさとして受け取るべきだと強制し、ついには相手を「自分の使い慣れたやさしさ」という型に無理やり押し込んでしまう。本末転倒だ。それでは結局、自分にやさしいだけじゃないか。(やさしさの根底がある人を特別扱いすることなのだとしたら「一般的なやさしさ」という言葉は矛盾している。)
具体的なやさしい行為そのものは定義できない。でもやさしさの出発点は、人をだめにするソファみたいに、それぞれに合わせた形でその人を包み込むことだ。「あなたのやさしさはパイプ椅子みたいだね。大量生産の規格品。一応役割は果たしているけれど時間が経つと最初からそもそも快適でもなかったことを思い出す。15分でいいや。」なんていう言葉はとても鋭利で残酷なのかもしれないけれど、そんな言葉を思いっきり叫びたいときもある。紋切り型で画一的なやさしさの土台には効率があって、あなたの形を覚える時間も手間もかけられないって額に書いてあることに本人も気が付いているはずだ。接客ってそういうものだけど、店を出た後それを誰かが間違えて“やさしさ”って呼んじゃったのかもしれない。
やさしさとは曖昧で、不安定、不明瞭なものだ。けれど、その曖昧さこそが心地いいってことじゃないだろうか。「やさしさ」が「サービス」になってしまわないように。包み込むつもりで与えたもので窒息させてしまわないように。ぼくたちは気を付けなければいけない。
やさしくするのは難しい。そしてやさしさを与えるには時間がかかる。
やさしさを差し出した時、不安で震えていたあの手こそが、あの人がやさしいということを証明しているということにあの人は気付いているのだろうか。
世間一般的にやさしい人は沢山いる。有難いことに。そうして社会は回っている。けれど、知人A、B、Cに対してではなく、「名前のある一人の自分」に対して本当にやさしい人は多くない。
やさしさの基準はなく、本当の意味でやさしい人はいない。
「私」にやさしい人がいるだけだ。
あなたに贈られるやさしさがいつもあなたの為のオリジナルなやさしさでありますように。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?