見出し画像

お題で短編「楽しそうに笑うあの人」

愛している人と一つになれるなら、
こんな幸福はないでしょう
東美代の母、東貴美子の言

 高校二年の夏休みの前日、僕は東さんに告白をした
 終業式の後に呼び出して、蒸し暑さと緊張で汗だくになりながら、体育館の脇の渡り廊下で思いを告げた
 「じ、実は、一年の頃から君が好きで、えっと、ずっと見てました!いきなり、こんなことを言われてもって思おうかもしれないけど、あの、えっと、ぼ、僕と付き合ってもらえませんか?」
 全然、スムーズに言えなかったと思う
 つっかえたり、上ずったり、それはもう無様な告白を静かに聞いた後、東さんは頬を赤らめて、小さくよろしくお願いしますと頷いた
 「え?」
 あまりの事に思わず聞き返してしまった
 「僕と、その、恋人になってくれるって、ことで、良いのかな?」
 彼女は照れたように目を逸らして、小さく一度頷く
 ずっと憧れていた東 美代さんが、僕の彼女になるだなんて夢のようだった

 東さんは大人しくて、頭が良く、美人で、医者の両親を持ち、優しく柔らかな性格から、友人にも恵まれている
 僕はと言えば、特に特徴もなく、勉強も見た目も中の下くらいで、平凡な家庭に生まれた所謂ぼっちだ
 帰りに一人でファーストフード店でぼーっと食事をして、本屋で小説を買って帰る放課後を過ごしている地味で花もない男子高校生
 そんな僕が、東さんと付き合える
 今、東さんは僕の恋人になった
 その事実に現実味がなく、緊張もあったからか軽く眩暈がした

 「川西君、大丈夫?」
 東さんが心配そうに僕の顔を覗き込んできた
 「あ!いや、その、あまりに嬉しすぎて、現実味がないというか、夢みたいというか、その、えっと、嬉しすぎてよくわからなくなっちゃって」
 急に顔が近付いた事に焦りながら、ワタワタと返した
 「そうなんですね。……実を言うと、私も川西君のことが気になっていたんですよ。だから、今日呼び出された時点で少し期待していたんです。私もあなたが好きなので、安心してください」
 意外な言葉に僕は次の言葉が言えずにいると、東さんは一緒に帰りましょうと笑った

 帰りの道中、僕らは色々な話をした
 なんでも、東さんは僕が園芸部の花が荒らされているところをすぐに先生に伝え、部員が揃う前にある程度整備をした上で、颯爽と帰っていったという話を聞いて以来、好意を寄せてくれていたらしい
 確かにそんなこともあったなぁと考えを巡らせたが、東さんがその花壇で時折花を育てていたことを知らなければ、関わることはなかったと思う
 そのことはなんとなく伏せておいた
 それ以外にも、クラス委員の仕事を率先して手伝ったり、重いノートを一緒に運んだり、そういった気配りが嬉しかったらしい
 当たり前のことだよなんて笑っては見せたが、やはり、東さんだったからである
 東さん以外の人だったら、僕は手伝っただろうか?と考えると、声をかけられたら断れないから手伝っただろうなと言うくらいで、率先して手伝うことなんてない
 そんなことを思いながら、東さんを見る
 僕と道すがら、好きになったきっかけなんていう話をしているだけなのに楽しそうに笑っている
 あぁ、僕は本当に東さんが好きだなと改めて噛み締めていた

 「川西君は?」
 見惚れていたため、急な問いに反応がうまくできなかった
 「川西君は、どうして私のことが好きになったんです?」
 無邪気に、ちょっと悪戯っぽい顔で聞いてくる
 僕は、恥ずかしいながらもポツポツと語った

 僕が入学式で、友達も誰もいなくて、誰にも声をかけられなくておどおどしていた時に、真っ先に声をかけてくれたのが東さんだったこと
 その後も、素敵な友達がたくさんいるのに僕に話しかけてくれたこと
 数学の問題でわからないところを教えてくれたこと
 ファーストフード店通いで若干太ってきた僕の体を心配してくれたこと
 そして、笑顔がとても可愛らしいこと

 歩きながら話していると、東さんが徐々に赤くなっていった
 「こう、改めて言われると、照れますね……」
 ふにゃっとした柔らかい笑みに、思わず心臓が跳ねた
 それを隠すように
 「さっきの僕も同じだったんだからね」
 と笑いながら返すと、東さんはまた笑う
 こんなに笑う人だったっけと思う
 時折寂しげな顔をするところを見ていた僕としては、僕と話していてこんなに笑ってくれるのがとても嬉しかった
 いつまでも眺めていたいと思った

 楽しい時間はあっという間とは言うが、この時ほど実感することはなかっただろう
 もう帰り道の分岐に来ていた
 東さんはこのまま住宅街の方へ、僕は駅側の方に家がある
 自宅同士は歩いて三十分もかからない距離ではあるが、やはり離れるのが寂しかった
 もし良ければ、駅の方で一緒に夕飯でもと誘おうとした時だ
 「あの、川西君。うちで夕ご飯食べませんか?」
 目を伏せながら、東さんはそう言った
 「あ、えっと、良いの?急にお邪魔しても」
 東さんは僕を見た
 「うち、両親が忙しくてほとんど家にいないんです。食事はいつも私が作っているのだけど、それでも良ければ。その、まだ、もう少し一緒にいたくて……」
 同じ気持ちだったことが嬉しくて、同時にあらぬ想像と緊張が押し寄せた
 両親不在の女の子の家にお呼ばれするわけだ
 もちろん、今までの人生でそんなことがあるわけがない
 付き合った当日にこんな展開になるなんて想像もしていなかった僕は下心を隠しつつ、緊張もあり、さらに嬉しすぎて浮き足立っていたため異様な早口で言った
 「あの、僕も一緒にいたくて、夕飯誘おうと思ったところ。彼女の手料理が食べられるなんて幸せ過ぎるし、お邪魔していい?」
 東さんは、口元に手をやって、喉奥でクツクツと笑いながら、手を差し出してくれた
 一瞬戸惑ったが、手を繋ごうと言うことだと気付いて、手汗を制服のズボンに擦ってから手を取る
 ひんやりとした、細くて小さな手だった

 東さんの家は歩いて十分ほどでついた
 我が家なんか比べ物にならない、大きな家だった
 大きな庭に車が2台入るガレージ、三階建てでやたらとオシャレなデザインだ
 ガレージには車がない
 東さんの言う通り、両親は不在のようだ
 ドアは何かセンサーのようなものがついていて、東さんがキーホルダーをかざすと解錠される、なんともハイテクなものだった
 圧倒されている僕の様子に気付いたのか、東さんは少し寂しそうに笑う
 「大きな家でもずっと一人だと寂しいものですよ。なんだか、自分の身体に空洞があるみたいな」
 僕はそれを聞いて、上手い言葉が出ない代わりに、東さんの手を握る
 東さんは、柔らかく僕に微笑んでどうぞと家の中に招いてくれた

 一階のリビングはかなり広かった
 大きなテレビの台の下に、流行りのゲームがいくつかおいてある
 「東さんって、ゲームするんだっけ?」
 とキッチンで準備を始めた東さんに声をかけた
 「私もたまにやりますけど、お父さんのですね。川西君の好きなタイトルがあればやって待っていても良いですよ」
 東さんのお父さんの趣味は僕と合いそうではあったが、東さん一人用意をさせるのが心苦しく、キッチンに向かう
 「ゲームもいいけど、一緒に作ったら楽しいとかなって。どうかな?」
 僕が言うと、東さんはお願いしますとまた微笑んだ

 慣れないながら、東さんを手伝ったものの、ほとんど作ってもらってしまった
 ほぼ洗ったり、皿の準備をしたり、箸を並べたり、飲み物を用意した程度だ
 だが、東さんは魔法みたいに、美味しそうな料理を次々と作った
 チキンのトマト煮、野菜たっぷりのスープ、ピーマンの炒め物、ほうれん草のおひたし、ご飯は雑穀米を炊いてくれた
 身体に良さそうで、何より美味しそうだ
 うちの母さんも料理はうまい方だが、東さんはもっと上手いように思う
 「すごいなぁ!東さん、料理上手いんだね!」
 食べる前からつい言ってしまった
 「まだ食べてないじゃないですか。でも、嬉しい。お口に合えばいいんだけれど」
 と照れている
 可愛さにも圧倒されながら、席についた

 料理はどれも美味しかった
 チキンのトマト煮は野菜も肉も柔らかく煮られていて、トマトソースも甘酸っぱくてずっと食べられる美味しさだった
 スープも具沢山で、コンソメのベースに玉ねぎやキャベツ、にんじんを細かく切ったものが入っていて、野菜の甘みが強く、ついおかわりしてしまった
 ピーマンの炒め物はシンプルながら鰹節と醤油の風味が以外にもマッチしていて箸が進んだ
 ほうれん草のおひたしも何の出汁だろうか、とても風味が豊かでパクパク平らげた
 ファーストフード好きな僕は、野菜はあまり食べないし、そもそも進んで食べたりはしないのだが、あまりに美味しくてたくさん食べてしまった
 「やっぱり料理がうまいんだね。僕、野菜そんなに食べられる方じゃないんだけど、美味しくてたくさん食べちゃった!」
 それを聞くと東さんはニコニコしながら言う
 「良かった!たくさん食べてくれるのも嬉しかったです。ファーストフードばかり食べているって言っていたので、栄養のバランスを考えて作ってみました」
 僕は感激した
 前から好きでいてくれたとはいえ、付き合ったばかりの僕のことをそこまで考えてくれるなんて
 「東さんを、好きになって良かった」
 うっかり口に出た
 東さんは顔を赤くしながら、スープを啜る
 「あ!えっと、その、こんなに美味しいなら毎日でも食べたいなっていうか、あーなんていうか、その、えっと、あの、何言ってるんだろ僕」
 うっかり声にしてしまったことと、しっかり聞かれてしまったことに動転してしまった僕は、まるでプロポーズみたいな言葉まで口にして一人で顔を赤くした
 それを見た東さんは僕に優しく微笑んで言う
 「川西君が良ければ、毎日来ても大丈夫ですよ。しばらく両親もいませんし、それに、宿題を一緒にやるって言うのもいいんじゃないですか?私は彼氏がいたことがないから、恋人同士の過ごし方やデートというものがわからないので、もし良ければなんですけど」
 願ってもない提案に、僕が二つ返事で了承したのは言うまでもない
 浮かれ気分で顔の緩んだ僕がこれから楽しみだなぁと呟くと、東さんは少し真面目な顔をした
 「ただ、私とお付き合いしていることは内緒にしてほしいんです。うちの両親はそういうことに厳しくて、ご家族とかの口から伝わってしまうと、多分、お付き合いができなくなってしまうんです。うちに来るのも難しいかと……」
 それならと、僕は二人の関係を誰にも言わないことを約束した
 もちろん、家族にも
 しばらくのんびりして、夏休みの宿題の消化スケジュールを決めた後で帰路についた

 それから、夏休みはほぼ毎日東さんの家で過ごした
 母さんは仲のいい男友達でもできた程度と考えているらしい
 それにうちは元々放任主義だったので秘密がバレる心配もなかった
 しっかり夏休みの宿題が進んでいたこともあり、柄の悪い奴と付き合うようになったのではないかなんて心配もされることもなく、日々が過ぎていった

 八月の中旬頃だったと思う
 東さんの両親が家に帰ってくる日だったようで、その日は家で宿題のノルマをこなすことにした
 東さんに会えないことと、手料理が食べられないことで少しガッカリしたが、また明日には会えるから宿題を頑張ろうと思えた
 東さんと付き合ってからというもの、食生活が改善されたからか体調が明らかにいい
 ファーストフードを食べていないからというのもあるだろうが、東さんがいるから頑張ろうと思えることが増えた気がする
 ありがたいなぁ、なんて思いつつ、久しぶりに今夜はチーズの挟まった大きめのハンバーガーが食べたくなった
 宿題を終えるとちょうど夕飯時だったので、部屋着から着替えてファーストフード店にむかうことにした

 ぬるい夕方の風に吹かれながら、駅前の雑踏と飲食店の吐き出す臭いでぐったりしながら歩く
 日が沈みつつあるとはいえ、かなり暑い
 ちょうど帰宅時間の人混みも合わさって、なかなかきつい
 早く涼しい中でハンバーガーにかぶりつきたいところだ

 あと数歩でファーストフード店に入るというタイミングで、腕を掴まれた
 ひんやりした、細く小さな手の感触
 振り返ると東さんがいた
 「あれ?東さん?」
 思いがけないところで東さんに会えた僕は当然顔が緩んだが、東さんはゾッとするような無表情で僕を見つめている
 「……東さん?どうしたの?」
 不安になって聞いてみる
 何か怒らせるようなことをしてしまっただろうかと、頭の中で記憶を辿っていると、東さんは形のいい目を少しだけ大きく開いて、真っ直ぐに僕を見て言った
 「今、そこに入ろうとしましたか?」
 そこ、というのはファーストフード店のことだろう
 僕が、そうだけど、良かったら一緒にと言いかけたところで、東さんは腕を掴む手に力を込めた
 「そんな身体に悪いものを食べないでください。お母さんのお料理はとても上手だと聞いています。無駄じゃないですか。もったいないですよ。せっかく健康的になってきたのに、どうしてですか?どうして捨てようとするのですか?」
 あまりの剣幕に少し怯んだ
 東さんは、僕がまた不健康な食事に戻ろうとしているのを止めてくれているようだ
 だが、なんとなく、薄寒いものを感じた
 本当は大きな声で嗜めたいところを押し殺しているような、かなりの怒りを秘めているような、そんな雰囲気だ
 真っ黒な瞳がじっと僕の両目を捉えて離さない
 「ご、ごめんね。ちょっと久しぶりに食べたくなってしまっただけで。その、捨てようとはしてないんだよ。心配かけてごめん……」
 僕の声が少し怯えた色をはらんでいたからだろうか
 東さんは目を伏せて、手を離した
 「いいえ、私もごめんなさい。束縛が過ぎますよね」
 悲しそうな顔でそんなことを言われては、たまらない
 「ううん!違うよ!東さんは僕を心配してくれてるんでしょ?それに、束縛ってほどのものでもないじゃない?今日は小説でも買って、母さんに何か作ってもらうことにするよ」
 それを聞くと、東さんは上目遣いで僕を見つめて言う
 「嫌われるかと思いました……。川西君を好きになって良かったです」
 あぁ、この人はどうしてこうも僕の心臓を刺しにくるのか
 きっと僕の顔は緩み切っていただろう
 「僕も東さんを好きになって良かった」
 お互い照れたりしながら、僕は小説を買いに、東さんは食料の買い出しに
 また明日と言いながらわかれた

 楽しい時間はあっという間 
 楽しい夏休みもあっという間だった
 夏休みの最終日、宿題も全て終わった僕らはのんびりゲームをしながら過ごした
 東さんは横で僕のプレイを見つつ、時々貸した小説を読み進めている
 特に何があるわけでもないけれど、こんな時間がとても幸せに思えた
 しばらくして、リビングの時計が十八時を告げる
 「そろそろ、ご飯の準備しましょうか」
 東さんはそう言って立ち上がった
 僕も手伝おうとすると、東さんがそれを制する
 「今日は最終日ですよ?私一人でやらせてください。サプライズ、というのをやってみたかったんです」
 サプライズって言ってしまっているが、こだわりの料理を作ってくれるようだ
 僕は素直に聞き入れ、ゲームの続きをして待つことにした

 リビングは美味しそうな香りが立ち込めている
 「できましたよ!食べましょう!」
 東さんが声を弾ませて言った
 よほどの力作なのだろう
 僕はウキウキとテーブルに向かう
 そこには、肉厚なパテとトロトロのチーズを重ねに重ねたハンバーガーがあった
 フライドポテトも、ナゲットもあり、いつものようにサラダやスープの準備もあった
 「好きな食べ物でしょう?私のワガママで我慢させてしまったので、今日はガッツリで作ってみました!」
 あまりに嬉しくて、席についてすぐ高らかにいただきますと告げた
 召し上がれと笑う彼女は嬉しそうに微笑んでいる
 肉厚のパテは肉汁がすごく、気を付けて食べないと滴ってきてしまう
 チーズもとろりとしていて、ナイフとフォークで食べてもいいかもしれない
 挟まっていたレタスも歯ごたえがいい
 バンズもこだわってくれたのか、外はサクッと、中がふわふわしている
 それに肉汁が吸われて、最高の組み合わせになっていた
 「美味し過ぎる」
 そこから僕は止まらなかった
 東さんの料理をガツガツと平らげて

 そこから、
 そこから唐突に
 眠気のような暗闇が襲ってきた
 何が起きたのかはわからない
 頭の奥がゆっくりグズグズと崩れていくような
 思考がまとまらない
 どうしたんだろう
 東さん

 「川西君、食べちゃいたいくらい大好きですよ」

 東さんは
 楽しそうに笑っている
 クツクツと
 喉の奥から響く笑い声が
 水の中で響くように耳に届くと
 僕の意識は完璧に
 暗闇の中に
 吸い込まれた





 崩れた脳が再び形を成すように、じゅわじゅわと暗闇が溶け出した
 ひたすらに重い空気にまとわりつかれているような感覚
 そこから急激に浮上した

 瞼越しに強い光を感じる
 何か硬いものに寝かされているようだ
 後頭部に感じる冷たさはなんとなく金属のように思えた
 首から下の感覚はよくわからなかった
 ただ、嗅覚が先ほどから重く生臭い鉄の臭いと何か料理のような匂いを感じている
 ここはどこで、何が起きたのか
 ぼんやりする頭で記憶を辿る

 僕は、東さんと夕食を食べていた
 それから、それから……
 それから意識が遠のいて、東さんの笑顔を暗闇に見送った

 「東さん!」
 そう叫びながら体を起こそうとするが、全く力が入らない
 と言うより、感覚自体が喪失していた
 「あ、起きたんですね?」
 東さんの柔らかくて優しい声がした
 東さんは無事のようだ
 「よかった、東さん!一体何が……」
 僕が横たわっているところに、東さんが近付いてきた
 楽しそうに、目を弓形に細めて、喉の奥でクツクツと笑っている
 東さんの服は、血に塗れていた
 「東さん!?怪我は?大丈夫!?……ごめん、僕起き上がれなくて!何があったの?」
 焦りながら聞くと、東さんは聞いたこともない高い声でケタケタと笑う

 「川西君、川西君川西君川西君!君は本当に私を好きでいてくれているんですね!私は怪我をひとつもしていませんよ、大丈夫。それよりも、川西君の方が大変なんですよ。大変なんです」
 東さんはそう笑いながら、何かのリモコンを操作した不意に機械音がすると、モーターのような駆動音とともに上半身がゆっくりと起き上がる

 僕の体は、開かれ、削られ、切り取られていた
 四肢のいくつかは既に消失している
 胸から臍の辺りまで切り開かれた腹の中で脈を打つ内臓は、肌寒い部屋の中で湯気を立てていた
 無機質な蛍光灯の灯りが、ぬらぬらとした粘膜や滴る血液を照らしている
 反射した灯りは、脈動に歪められて別の生き物が蠢いているようだった
 「は?」
 間抜けた声が、口から溢れる
 「美味しくなってくれてありがとう、川西君。あなたはとってもおいしいです。今、あなたの左手をトマトソースで煮込んでいるところなんですよ。私と手を繋いでくれるのはいつも左手でしたね」
 恍惚とした顔で僕の顔を眺める東さんは、まるで別人の様に艶っぽく、饒舌だった
 左手に目をやると、肘から先がなくなっている
 「あ、あぁ……、え、なんで……」
 思考などできない
 ただ僕の頭の中はグルグルと濁った泥水をかき混ぜるように何故だけが渦巻いていた

 僕の疑問に答える前に、東さんは臓物の中に手を突っ込んだ
 感覚はないが、恍惚とした表情で臓器を弄る東さんが恐ろしかった
 脈動する臓物は、細い腕に弄られて身悶えるようにのたうつ
 「あ、うぇ……」
 吐き気のような眩暈のような感覚に襲われる
 チラリと僕の顔を見た東さんが、またクツクツと笑う
 そして、手に持ったメスで何かをぶつりと切断した
 ぶつり、ぶつり、何かを切り離す音が響く
 最後のぶつり、という音とともに、臓物の蠢く中からずるりと大きめの臓器を引き摺り出して、トレーの上に乗せた
 プルプルとしたそれはきっと
 「ここは肝臓。レバーです。何にしましょうか。これだけ新鮮なのであればお刺身でもいいのかもしれませんね。ずっと食べてみたかったんですよ、レバ刺し。レバーパテも良さそうです。これだけ大きいのだから、いくつか料理ができそうですね」
 無邪気に笑う東さんは、僕の肝臓をテーブルに運んで行った
 そして、血まみれの手袋を外しながらこちらに帰ってくる
 手袋がゴミ箱に投げ込まれると、ベチャッと嫌な音がした

 手袋を外した、細く小さな手で僕の顔を撫ぜながら、また喉奥でクツクツと笑う
 そうして僕はもう一度、
 「何で」
 と呟いた
 「そうそう、何故、でしたね。美味しそうだったからですよ。川西君が美味しそうだったからです。そして、私はあなたのことが本当に大好きだからですよ」
 いよいよ訳がわからない
 東さんの言葉は、ぐるりと頭の中を巡ってはいるものの、僕の脳に染み入ることはなかった
 全く理解というものには至らない
 何を言っているんだろう
 理解できるわけがない
 凡人の僕に、彼女のような人の気持ちがわかるわけがない
 僕が美味しそうだから、好きだから、食べる?
 食べちゃいたいくらい大好き
 あれがそう言う意味だなんて誰が思うだろうか

「見て!あなたの腿のお肉!ステーキにしてみたんです!美味しそうでしょう?実際に美味しいんですよ!一ヶ月健康的な夕食を作った甲斐がありました!」
 夏休み中の毎日の夕食
 ファーストフードをやめて、無駄な脂肪も落ちて、朝のだるさからも解放されていた
 僕の体を気遣ってくれたんだと思っていた
 美味しく食べるためだったなんて、誰が思うんだろう
 あぁ、だからあんなにも、あの日あんなにも黒い目を向けて怒っていたのか
 僕は、食べられるために近づかれたんだろうか
 東さんの気持ちはよくわからない
 僕はなんだったんだろう

 僕はその時どんな顔をしていたんだろうか
 きっと、泣きそうな顔だったのかもしれない
 それを見て、東さんは悲しそうな顔をした

 「川西君、ごめんなさい。あなたが食べたくて、恋人になったわけではないんですよ」
 東さんの手が僕の頬を撫ぜる
 「あなたが好きだから、なんです。あなたを愛しているからなんです。こんな私でごめんなさい。私、ずっと、ずっとあなたと一緒にいたいんです。男の人はわからないから。お父さんがお母さんにしたように、いなくならないとは限らない。だから、お母さんがお父さんにしたように。我慢ができなくて、ごめんなさい。私は心からあなたを愛しているのです……。……ごめんなさい、ごめんなさい」
 東さんは泣いていた
 綺麗な瞳が潤んで、涙がスゥッと頬を伝った

 僕は自分を恥じた、東さんの気持ちを疑ってしまったことを
 この人は本当に僕が好きなんだ、と思った
 確かに、彼女の血肉になれば、永遠に一緒だろうと思う
 両親の話をするときに悲しそう色を滲ませていたのはそういうことだったのだ
 僕はこんなにも、愛されている
 この理不尽な状況なのに、僕は怒りも湧かなかった
 ただ、東さんが愛おしかった

 僕は東さんを愛している

 「ううん、いいよ。大丈夫だよ。ずっと一緒だよ。ごめん、気の利いた言葉は言えないのだけど。それに、少し眠くなってきちゃって、もしかしたら、もう一度目を閉じたら最期なのかもしれないね。……僕は君が大好きだよ。ずっと一緒だよ」

 愛しているだなんて、なんとなく似合わないくて言えなかった
 でも僕にはその言葉が相応しいと思えた
 僕らの、秘密の夏休みは、この言葉で終わるのが良いような気がした

 家族のことを考えた
 きっと母さんも父さんも僕を探すんだろう
 僕という形が消えてしまった世界で
 東さんの中で生き続ける僕のことも知らないで
 少し寂しい気はした
 母さんを泣かせるのは心苦しい
 それでも、僕はこの終わりが悪いことには思えなかった
 きっと理不尽なことなんだろう
 このことがバレてしまったら、東さんはきっと捕まってしまうし、何より、そのまま生きていくことはできないかもしれない

 それでも、僕はずっと一緒にいる
 これから先、ずっと一緒にいる
 大丈夫だよ、東さん
 僕はどこにも行かないよ

 もう声にもならない掠れた音が喉から漏れる
 声を上げて泣く東さん
 その声が水の中で響くようにくぐもり始めた

 そこからまた、世界が暗闇に沈む
 最後まで気の利いた言葉も思い浮かばないまま、意識はどこかへ揺蕩い始めた

 泣かないで、東さん
 ずっと一緒にいるよ
 僕の大好きな人


 お母さん、私はこの人を好きになって良かったです
 お父さん、今お母さんと一緒で幸せですか?

 私は………………

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?