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フェレット

土曜日の夜になると、ふたりには奇妙な取り決めがあった。
男の生えかけの髭を、女がピンセットで丁寧に抜いていくのだ。
一本一本、痛みを伴いながら、その痛みをふたりで分かち合いながら。

男は大学に通うかたわら、バーテン見習いをしている、
女より2つ年下の美しい青年だった。
イタチ科の細長い小動物『フェレット』を飼っていて、
そいつに『よしこ』という名前をつけていた。
そのよしこは、彼が初めてこの町に来てナンパをした女の名前だった。
男は屈託のない笑顔で、
「あまりに不美人だった彼女が忘れられないからなんだ」
と言った。

ペットの『よしこ』が死んだ夜、男は深夜にも関わらず、
女をアパートに呼びつけて、さめざめと泣いた。
女はしっとりと濡れた男の頭を抱えて、
死んだ動物に思いを馳せようとしたが、
よしこという妙に生々しい名前が邪魔をして、
もらい泣きなどできなかった。
男がしゃくりあげながら呼ぶ名が、
本当は不美人な女のほうなのではないか、
という疑念が拭いきれなかったし、
男の嘆きが不相応に激しかったのが滑稽でもあり、不謹慎と思いつつ、
笑いを堪えるのに必死だった。
「どうして死んじゃったの」
女が訊ねると、「髭を抜いたからさ」
男はきっぱりと答えた。
その目は爛々(らんらん)と光っていて、
常人(じょうじん)のそれとは思えなかった。
死の淵をのぞいた人が、それを後から思い出しては
頭の中から追い出そうと努めるように、
男はなにかに取り憑かれたようだった。

その日以来、男は髭を病的に気にするようになった。
「おれが生きてるのは、髭があるからなんじゃないかな。」
「大丈夫。髭なんかなくても死なないわよ。」
それを確かめるために、女は毎週土曜日、うすく生えてくる男の髭を抜く。
その間(かん)、女は味わったことのない多幸感に包まれる。
目を閉じて身を任せる無防備であどけない顔を独占することは、
なにものにも変え難い尊さを感じた。
そうやって、言葉もないまま、互いを癒やし合う行為は、
いっとき男女の契約を忘れさせてしまうようだった。
もしかすると、ふたりは束の間、
母と子のように身体を共有していたのかもしれない。
「生きてるよね?」と男が無垢な声で訊く。
女にはわかっている。
不美人なよしこが、このまま美しい青年を成長させないつもりでいることを。
永遠に髭の生えそろわない青年は、
よしこの出会ったときのまま、
大人になることを拒み続けるだろう。

おしまい

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