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チョコレートケーキ

若い娘とその情夫は、朝日の中を歩いていた。
娘は明け方まで六人の客をとって、
合わせて四十五本のバラをもらい、
シャンパンを二本開けたものだから、上機嫌だった。
稼いだ金を数える情夫がめずらしく娘を誉めると、
娘は太陽を大きな瞳に映して、
「仕事だもの」と勝ち誇った物言いをした。
若い肢体には、疲れた様子はみじんも見当たらず、
娘からは、ただ鼻唄に似た独り言が漏れ聞こえていた。
「夜(よ)が明けたら…夜(よ)が明けたら…」

二人が朝日の差し込む明るいカフェテリアに入ると、
情夫はブラックコーヒーを、
娘はコーヒーと甘いチョコレートケーキを頼んだ。
チョコレートケーキは今の時間やっていない、と店の主人が言いかけると、
情夫がその手に札(さつ)を握らせて黙らせた。
この町のどこかにはあるだろう。
悲しい労働を癒やしてくれる、優しいチョコレートケーキ屋のひとつくらい。
娘と情夫は、「お疲れ様」と言い合って、
最初の一口を味わった。

それを皮切りに、娘と情夫は取り止めのない話を始めた。
それは、ふたつの家族をめぐる物語であり、
より惨めな物語を紡ぎ出す退屈な作業であり、
つまり馬鹿馬鹿しく愚かな不幸自慢だった。
男は無口な祖父に墓地に連れていかれ、
夜中まで墓石に縛り付けられた話をえんえんとした。
娘は双子の姉が錯乱して家の中に巨大な穴を掘る話をしみじみと語った。

そしてまた、きのう見た夢の話をした。
「スリランカ」つまり、光り輝く聖なる島の港に流れ着いた男は、
これから付き合いの始まるという一族に
次々と名前を紹介されるが、
それが長すぎるために、どうしても誰一人として覚えられない、
というもどかしい夢。
「バベルの塔」と呼ばれる朽ちかけた遺跡にたどり着いた娘が、
塔のてっぺんにいる母親から
娘が生まれてから今日までの話を詳細に聞くのだが、
その言葉のすべてが嘘と虚構でできていて、
沈黙の中、悔し涙を流す、
という救いのない夢。
そんな話をしている二人の姿は、朝の光にきらきらと照らし出されて、美しかった。

しかし、そのうちのひとりに影がないことに気づいたカフェテリアの主人は、
手を滑らせてやっと手に入れたチョコレートケーキをだめにしてしまった。
そして、その落ちたチョコレートケーキは、
あたたかな日射しにとろんと溶け出し、
うごめく粘液となって床を這い、
あるべき場所にそっとその影を創り出した。
あとはなにもかも元通り。

おしまい

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