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2019年のモバイルゲームデザインとプロデュースを考える(2) 「ゲームデザイン」の歴史

こんにちは。
今回はタイトルの通り「ゲームデザイン」について、パズドラ以前までの考え方を、順を追って見ていきたいと思います。

尚、今回の内容はそもそも私が生まれる前の出来事も含まれ、二次ソースの情報や私の主観的解釈も含まれます。間違いや別の情報ソースがあれば、是非ご指摘下さい。

また、今回様々な文献を参照しますが、それらは全て参考文献として一番最後にまとめてありますので、興味のある方はそちらもご覧下さい。(引用箇所には*印と番号を記載しています)

狭義の「ゲーム」は勝敗を決するもの

早速ですが、「ゲームデザイン」の話をする前に、「ゲーム」の定義について考えていきます。例えば、三省堂国語辞典にはこの様に書かれています

(1) 勝敗を争う遊び. (2) 試合. (3) テニスで,セットの区切り.

また、wikipediaでは以下のように説明されています。

勝負、または勝敗を決めること。守るべきルールがあり、環境または他人との相互作用を元に行なわれる活動である。邦訳ではプレイ(英: Play)と混同され遊びや遊戯の言葉が当てられることが多いが、英語圏では明確に区別されている。

なるほど、どうやら「勝敗」がゲームとして大事な事の様です。

では、「勝敗」のあるゲームとなるために必要なものは何か?
それこそが「ルール」だと自分は思います。それも、「不確実性を含んだルール」でなければなりません。
逆に「不確実性を含んでいないルール」とはどんなものか?

例えば、数取りゲームという遊びがあり、以下の様なルールです。*1

・2人組で行います。
・1~20までの数字が 「1 2 3 … 19 20」 というように順に並んでいます。
・1から相手と交互に数字を消していき、最後の20を取った方が勝ちです。
・1人が1回に取れる数字は1~3個までです。

この「ゲーム」は一見、勝敗を決めるルールが決まっており、「ゲーム」として成立していそうです。しかし、ご存知の方も多いと思いますが、このゲームは後手必勝であり、それに気づくのは難しくありません。(理由については参考文献を御覧ください)
そうなるとこのゲームは、狭義の「ゲーム」ではないという事になります。

ではこのゲームに、次のルールを足したらどうでしょう。

[追加ルール]プレイヤーは各手番にサイコロを振り、出た目の数まで追加で数字を言って良い

途端にこのゲーム、運ゲーになりましたね。しかしこれで、後手必勝の先手無理ゲー(原理的に絶対に勝てないゲーム)ではなくなりました。この様に、勝負の結果に対して何らかの「ゆらぎ」を生み出す物があって、初めて勝敗を決める「ゲーム」として成立します。

このような「ゆらぎ」にも複数の種類があります。
例えば、以下のようなものです。*2

Performative Uncertainty(実行における不確定性)
プレイヤーの操作スキルによる不確定性

Solver’s Uncertainty(回答者の不確定性)
プレイヤーの思考力による不確定性

Randomness(ランダム性)
サイコロを振る,デッキからカードを引く,といった確率や乱数による不確定性

Hidden Information(隠された情報)
ゲームの情報が隠匿されることによる不確定性

これ以外にもたくさんの「不確実性」がありますが、ゲームを勝敗を決める遊びとして成立させるために、欠かせないものです。

狭義ゲームの「面白さ」はリスクとリターンのバランスから生まれる

そうは言っても、例えば本当に真剣勝負だったら、そんな不確実性はできるだけ消しますよね。ビジネスをやっていれば、徹底的に不確実性を潰しにいくはずです。しかし、それをしないからこそ、ゲームは「勝敗を争う遊び」と定義される訳です。

別の言い方をすれば、「不確実性をあえて受け入れ、それを楽しむ事」こそが、ゲームという遊びの本質という事になります。

また、「不確実である事」「それを何らかの手段で一定程度までコントロールできる事」「コントロールした結果、勝利が得られる事」がバランスよく達成されているルールは「ゲーム性が高い」ルールと認識されます。

この辺りの話についてはどうやらゲームデザイナーの間では常識として伝わってきたものらしく、web上で見られる資料としてはスマブラの生みの親である桜井政博氏の資料が公開されていますので、是非こちらを御覧ください。*3

少し余談にはなりますが、こうした「ゲーム」を扱った漫画やアニメコンテンツでも、そのスタンスには違いがあります。

ギャンブル漫画として真っ先にあがるであろう「カイジ」シリーズや、無敗のゲーマー兄妹がゲーマーとしての理論と頭脳でファンタジーと戦う「ノーゲーム・ノーライフ」。これらの作品では、敵も味方もゲーム中に隠された意図や抜け穴、前準備によって、不確実性を極限まで減らして勝ちに行きます。

一方で、2019年3月現在アニメ第二期放送中の「賭ケグルイ」の主人公は、イカサマが仕掛けられた無理ゲーを運ゲーに引き戻す所まではするものの、最後はあえて運ゲーを行う、まさに狂った思考の持ち主として描かれます。

一点補足として、ここまで対人戦の例を多く上げてきましたが、「リスク」と「リターン」を楽しむ事は、対人戦に限らず実現できます。それは、誰かに勝つことではなく「ゲームをクリアする」事を勝利と解釈します。また後々のパートでも出てきますが、PvE(Player versus Environment)と呼ばれたりします。

ではひとまずここまでを、図にまとめます。

狭義のゲームの功罪

そうした不確実性を楽しむ狭義のゲームですが、不確実性を消す事を楽しむ「攻略」を行うプレイヤー達が現れます。何せやっぱり、人間勝ちたいですからね。また、そうした「攻略」を行うプレイヤーが多くなると、2つの現象が起こります。

一つは、「Performative Uncertainty(実行における不確定性)」の減少。とにかくそのゲームを徹底的に練習して、操作ミスを無くし、思った事を思ったとおりに実行できようにしていきます。

もう一つは、「Randomness(ランダム性)」の排除です。徹底的に練習し、操作がいくらうまくなっても、最後は運で決まるというのに耐えられない人もまた多く、ランダム性が高いものは「運ゲー」と呼ばれるようになりました。

その結果、運要素が少なく、操作難易度が高いゲームが続々と生まれた時代がありました。その中でも特に行き過ぎたジャンルが、シューティングと格闘ゲームです。

予め断っておくと、私はシューティング好きです。しっかり研究すると、反射神経は必要なくなり、全部理詰めで「攻略」していける所は、とても面白いと思っています。しかし、初心者がこのような「遊び」をするのは無理でしょう。参考として、動画を一つ載せておきます。
(3/4 13:00追記)動画が正しく載せられていなかったようなので修正しました


当然、こうしたゲームはどんどんマニアのものになっていき、ビジネスとしては失敗に終わりました。そこでゲーム業界、ゲームクリエイターは反省し、一般の人でも面白く遊んでもらえるゲームについて考えるようになります。

(尚、格闘ゲームの方は、最近はe-Sportsという新しい魅せ方ができるようになり、人気も復活しているようです。この路線については、また後のパートで取り上げたいと思います)

広義の「ゲーム」は誰もが体験できるもの

狭義の「ゲーム」として面白さを突き詰めていくと、ビジネスとして成立しない事がわかった中で、ゲームは別の遊びと合流します。

それがTRPG、そしてゲームブックです。詳しい歴史は参考文献*4をご覧頂くとして、かいつまんで説明します。

そもそもTRPGとは?
 テーブルトークロールプレイングゲームの略になります。キャラクターシートとサイコロ、それにルールブックを手にした仲間が集まり、DMダンジョンマスターと呼ばれる司会進行役に従って用意されたシナリオを遊ぶものです。冒険の舞台となるのは作りこまれた異世界。主役となるのは参加する貴方自身なのです。
1983年、イギリスの児童文学とでもいうべきペーパーブックシリーズにちょっと変わった本が収録されました。『ゲド戦記』という高名な先達と肩を並べたその本は、ページを順番におっていくだけの読み物ではなく、選択肢を選んで400あるパラグラフのどれかに飛ぶという楽しみ方をする斬新な作品でした。そうストーリーの展開を読者が選べるのです。
 その本のタイトルは『火吹き山の魔法使い』
 それがゲームブックの開祖というべきファイティング・ファンタジーシリーズの始まりでした。

これは、誤解を恐れず言えば、決められたルールの中で行う「ごっこ遊び」でした。もちろんこれも、ルールがあり、シナリオをクリアするというPvE要素があり、狭義のゲームとしての特性を備えていました。その証拠かは分かりませんが、どちらも「テーブルトークロールプレイングゲーム」、「ゲームブック」とゲームを名乗っています。

しかし、この遊びはゲームとしての本質よりもっと外側、「役になりきる」部分に楽しみを見出していたのです。これは、ゲームに詳しくなくても遊べる事、変に難易度を高くする必要が無いという点で優れていました。

そしてこの遊びは、アナログゲームだけでなく、コンピュータゲームにも取り入れられました。それが、ウルティマ、ウィザードリィ、そして国内ではドラゴンクエストだったのです。*5

こうした流れによって「ゲーム」に2つの化学反応が置きました。
一つは上述の通り、「役になりきる」という要素が遊びの中核として機能するようになった事。そしてもう一つは、「レベル上げ」という概念の導入です。

特に後者は、ゲーム性の本質であった「リスク」と「リターン」のバランスという概念に、強く影響を与えるようになります。どういう事かと言うと、本来はプレイヤーの智略によって行うものだったリスクコントロールを、レベル上げという単純作業によって代替可能になったのです。

例として、炎の魔法が弱点のボスがいたとしましょう。
この時、純粋なゲーム性の観点からは、炎属性の魔法を覚えたメンバーを中心にパーティを編成する事が、最もリスクを下げてリターンを得やすい選択になります。
しかし、そのボスが炎に弱いという事を知らなかった場合、戦士のレベルをとにかく上げて、ステータス差でゴリ押しする、という事も可能です。

これは、悪いことではありません。ゲームに詳しい人はそのルールを最大限活用する事で楽にクリアできますし、そうでない一般の方も、時間をかければクリアできるのです。
こうしてゲームコアには、作業によってリスクを減らす装置が取り付けられる事になります。今ではこの部分を、育成要素とか「ゲームサイクル」と呼んだりします。

重要な事なので繰り返しておきますが、時間をかければ誰でもクリアできる、この特性はとても重要で、後々のパートでも出てくる事になると思います。

(3/3 21:30追記)また、「リスク」を避ける変わりに同じ作業を繰り返すという概念も重要であり、本連載ではこれを「ストレスをかける」あるいは単に「ストレス」と呼ぶこととします。
原義的には、リスクとリターンのバランス自体を楽しむものであったゲームは、ここに来て「ストレスをかけられてでも面白いと思うリターンが得られるもの」へと変貌します。

また付け加えておくと、「役になりきる」要素はそこから半歩進んで、「誰かの物語を楽しむ」要素にもなっています。
ドラクエでは、主人公は喋らず、プレイヤーの分身として振る舞う様に設計されています。一方で、ファイナルファンタジーでは、主人公も個性を持ち、喋り、重厚なドラマを展開していきます。
現在でも、ゲームの主人公は無個性であるべきかには議論があり、永遠に決着する事は無いでしょう。しかし、役になりきるのとは違った感情で遊んでいる人がいるのも、事実だと思います。

という事で、ここまでの要素を図に追加したものがこちらになります。
(3/3 21:30追記)ストレスの概念を図にも反映しました。

キャラを育成し、ゲームコアを遊び、報酬を獲得し、次のゲームコアを有利に進めるためにまた育成する。これがぐるぐると回っていく事から、「ゲームサイクル」と呼ばれる理由が分かるかと思います。
そして重要なのは、その繰り返しをプレイヤーがしたいと思うような、何らかのモチベーションが中心にある事。特にRPGにおいてこれは、「物語」が担うものでした。

そして現在でも、いわゆるソーシャル要素のないゲームの大半は、このモデルで説明可能です。

ソーシャル要素と「ガチャサイクル」

そんなこんなで「ゲームサイクル」が成立し、ゲームは誰でもクリアできるものになった訳ですが、2000年代になって、インターネットの波が押し寄せます。インターネットによって、離れた所にいる数十万人のプレイヤーが、繋がる環境が整いました。

そこで考えられた事が、対人戦、そして共闘です。

これはRPGのゲームサイクルから見ると異質ですが、もっと前の時代、原初のゲームコアとゲーム文化に立ち戻れば一般的な事だったと思います。
ゲームセンターでは、スコアアタックや格闘ゲームのX人抜きといった要素で日夜競争していましたし、TRPGでは友達と協力して冒険する事は当たり前だったはずです。

ただ違ったのは、当時インターネットにつながる機器は貧弱で表現力が低く、操作するためのデバイスやユーザーインターフェースもゲームに最適ではなかった事です。

その結果生まれたのが、いわゆる「ソーシャルゲーム」というガラケーで遊ぶゲームでした。当時は自分も「こんなのゲームじゃない」と言っていましたが、ルールがあり、勝敗が決まるので、原義的にはゲームの一種ではあります。*6

問題だったのはそこに、(あえていいますが)悪魔の装置「ガチャ」が取り付けられていた事でした。このガチャという要素と、対人、共闘要素が、悪魔的に相性が良かったのです。誰かに勝つため、チームに貢献するため、とにかくみんなガチャを回しました。

そして上手かったのは、ガチャから出たハズレにも、育成素材としての価値があったのです。詳しくは次回以降触れますが、最近のゲームで、ガチャのハズレ、育成素材に使いますか? 私はほとんど使いません。なぜなら、それよりももっと効率の良い育成方法があるからです。しかし、当時は違いました。ガチャを回すと、一握りの当たりと大量の雑魚が手に入る。手に入った雑魚を使って当たりキャラを育成すると、バトルに勝てる。そこだけでゲームが完結していました。

更にもう一つ、「貧弱な表現であること」が化学反応を起こしました。それが、ゲームコアの高速化です。
従来のゲームは、プレイヤーの介入要素が多く、1プレイに時間がかかりました。しかし、この頃のソーシャルゲームの勝敗はほぼ数値比べのみで、一瞬で終わります。結果、人に勝つために、チームに貢献するために、スタミナ課金をしてはそれを秒速で溶かしていけたのです。*7

結果、ゲームサイクルは従来のものと、ガチャのサイクルが繋がった少し歪な形に変質しました。以下の図は、参考文献7に手を加え、私なりの注釈を加えたものになります。

まとめ

大変長くなりましたが、この記事ではざっと、原義的なゲームから、ガラケーソーシャル時代まで、ゲームの定義とその変遷を追ってきました。

リスクとリターンを楽しむ時代、その行き詰まり。RPGとの融合、そしてソーシャル化と、比較的若い文化でありながらデジタルゲームは急速に変化を続けており、今後も大きく変化し続ける事でしょう。

尚、時代には揺り戻しがあるもので、この後パズドラが流れを変え、そして近年、再度同じ様なモデルに回帰しているのですが......それはまた、次回以降という事で。

次回予告

今回パズドラ以前までを見ていきましたので、次回はパズドラ前後の変化について、中心に見ていく予定です。

参考文献

*1 数取りゲームと必勝法

*2)ゲームを成立させる不確定性

*3)桜井政博氏によるゲーム性の解釈

*4)TRPGとゲームブック

*5)D&D、ウルティマ、ウィザードリィ、そしてドラクエ

*6)ソーシャルゲームの誕生

*7)スタミナ課金のスピードが違った







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