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「いひおほせて何かある」言葉では表現し尽くせないこの混迷する世界

およそ一万年前、牧畜と農耕を始める者が現れ富を蓄えるたとたん、人類は隣接する部族と戦争を始めたといわれています。

しかし、日本のような島国は逃げ場がないこともあり「正義よりも和を優先させる」という、大陸とは反対の原理で、文明を進化させてきたのではないかと思います。

なぜ、縄文時代が1万年もの間、争いのない平和な社会を維持できたのか?

日本と大陸では、争いに対する考え方が違いますが、そもそも両者は宗教からして違っています。

西洋の神様は、白い髭のお爺さんが杖を持って立っていて、『創世記』には「神は自分の形に人間を創造された」と書かれてあります。

ですから、神と契約したという選民意識の強い人は次第に神を脇へ押しのけて、神がああお告げになった、こうお告げになったと、聖典にどんどん書き足していったため『旧約聖書』は分厚くなったのでしょう。

一方の日本では、自然が神です。

ですから、立派な岩や大きな木にしめ縄を張って拝みます。

霊山も神の居ます所で、霊峰富士の上から御来光を仰ぐのは、お天道様を拝む太陽信仰でしょう。

富士山の登山口には鳥居が立っているのは、「ここからは神域です」と知らせているのだそうです。

鎮守の森全体が神様のお住まいなのです。

俳句では山が笑ったり眠ったり、詩では海が呼んだり招いたり、松原が騒いだりと表現はするものの、自然は言葉を話しません。

だから当然、神道には教義や聖典はありません。言葉でのこされたものはありません。

ユダヤ教の聖典は、旧約聖書の一部と『タルムード』という名のユダヤ教学者による言語禄が、小型トラック一台分の冊数はあるそうですが、浅はかな人間が作った思想や哲学などが何千ページ分あっても、それを実行できなければ屁の足しにもならないということを、今日の世界の混乱が証明しています。

「いひおほせて何かある」
と松尾芭蕉はいいました(『去来抄』)。

・・・表現しつくしたとてなんになる
・・・すべてを言い尽くして何がのこるのか
といった意味であります。


編集協力:
和の国チャンネル


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