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僕のストーリー②:一人で藻搔いてみたが

前回、やりたいことはたくさんあると書いたが嘘ではない。
今回やりたいことを書くつもりだったが、もう少し会社を辞めてからを整理する。


国内外問わず、ビジネスアイデアややってみればこうなるのでは?と思う構想が大なり小なり無数にあるし、縁するものによってこれからも無限に生まれるだろう。

ただ、会社員時代にアラフォーに近づくにつれて自分の人生の終わりを意識するようになったときに、思いついたことをすべて挑戦できるほど人生は長くないと気付いた。

誰かのように一つの夢や職業をストイックに追いかけられるほどの集中力もないし、忍耐力もない。

要は極度の飽き性。

若いころから仕事においては ある程度の評価を受けてきたし、スキルが明確なものでなければ人並み以上に覚えることもなれることも早く改善もできると自負している。

若いころ、国際支援の現場で働くという夢を追う際に様々なバイトや派遣の仕事をしてきた。

八王子で音楽をやりながらガソリンスタンドでバイトしていた時は、何だったか忘れたけど、ガソリンタンクに入れる謎の液体を関西弁で売りまくり、個人で関東第三位の売り上げを上げた。

つなぎでやったauショップにて来た客に光回線の契約をとる仕事では初月で関西一位の契約数をとって、社員へのスカウトをもらったが2秒で断った。

カンボジアから帰ってきて派遣でデイサービス(介護)の仕事をやっていた時も利用者やスタッフに気に入られて社員への声掛けをもらったが2秒で断った。

とにかく先が想像できて、変化の少ない仕事は嫌だった。

前職である農業法人では我ながら初めて10年ほど勤めた会社だったが、声をかけてもらったときに、ずっと農作業スタッフであるならばお断りしたいといわせてもらった。飽きて嫌になるのがわかっていたからだ。
ありがたいことに現場を経験を4年くらい経て、新規事業開発の部門を作らせてもらい、たくさんの挑戦をさせてもらったり、4Hクラブに時間を割くことも許してもらい、縁とタイミングもあって会長までやらせてもらった。

そして、自分のわがままもあり、自分でリスクを取ろうと退職。
同じタイミングで4Hの会長職も終わる。

時間もできてこれからが本番だと思っていたが、その実、中身は空っぽだった。

少し休憩くらいの気持ちでゴロゴロしたが、もう給料は入ってこないと気付いたとき、20年以上給料をもらって生きてきた自分には焦りしかなかった。

ともかく生活費がいる。

初年度は本当にありがたいことにたくさんの方が応援してくれて、カンボジアのツアーも2回やることができて、農業系の仕事もいくつかもらい、妻もパートの出ることで生活は貯金を特にすり減らすことなく生活ができた。

そんな中でも安定はしないのでとにかく日銭を稼ぐ手段はないかと まったくやりたいことでもないせどりを勉強してみたり(結果赤字ではなかった)、企業について学ばなければとサブスクのビジネスコミュニティに入ってみたりと右往左往した。

影響力を高めるべきだと発信の手段として、podcast「農のかけ算ラジオ」を始めた。これは週一の配信をちょうど1年ほど続けることができ、リスナーも多くはないが徐々に増えていき、得るものは無数にあったが、時間をとられるストレスと明確なビジョンがなかったため、今は止めてしまった。
また、ビジョンを明確にしたうえでpodcastは再開するつもり。

様々学ぶ中でまずは事業を始めなければ経験や実績にならないと、かねてから構想はしていたキャンプ場兼フリースペースを思い出し、土地の当てもあったのでとにかく挑戦することにした。

土地さえあれば、簡単に始められると思ったがそんなに簡単ではなかった。
同時に春までに始めなければ機会を失うことになる、とGWをオープン目標に12月ごろから模索した。

ひとまず金がない。手段は二つ。
融資とクラファンだ。

お金を借りることも起業家として、必須かつ実績だと思い、即座に近くの信金に相談。プロパーでは無理なのは勉強してわかっていたが、そこに近づくために借りなければ。しかし、保証金が馬鹿みたいに高い。
信金の話がどうにも腑に落ちないので、天秤にかけつつ、ちゃんと相談できていなかった公庫に相談しに行く。

丁寧に相談に乗っていただき、最低限の利子で最大限の活用を考えてくれた。どう考えても条件が良かった公庫に即決し、信金との関係性も今後のためにと思い、入金先は信金に口座を作った。

借りる額は600万。
盛りにもった額で運営資金もしっかり入れて、事業計画書や必要な資料を作り、いざ面談。もちろん、youtube等でとにかく面談を学び、自分の中で完全に理論武装をして挑んだが、ほぼ雑談くらいの感じであっけなく終わった。

あっけなさ過ぎて、「ダメだなこいつは」と思われてるのか、「この人なら大丈夫」と思われてるのかよくわからなかった。

結果は希望通りの融資を受け入れることができた。
そういえば、面談時に「山浦さん、なにかとお顔が広いみたいですね」と言われたのが気になっていたが、要は山浦が何者でどんな経歴かを調べていたようで、そこで4Hやメディア露出経験などが価値になったのだろう。

僕はSNS含め、こんな感じで自分の思いや経験を書き連ねる趣味があるのでそれがプラスに働いたのかもしれない。現に自分の名前で検索かけてみたら、カンボジア時代くらいから今までに至るまでたくさんの結果が出てきた。合コンマスターの名簿にも載ってたw

クラファンは法人時代に経験はあったが、個人として挑戦してどうなるかの不安はかなり強かった。持ち前のDM力と独立したことに対する応援でたくさんの方に応援してもらった。数字として100万くらいはイケルだろうと思ってたが、結果その通りに。でもクラファン手数料やサイト作りを外注したため手元には70%くらいが残った。

もともと宣伝が主な目的だったのでこれはこれで最低限の認知にはつなげることはできた。

キャンプ場の名前は「bokuya」

水回りの建設や、必要な機械類などとにかく準備に時間がかかり、とてもGWには間に合わなかった。

オープンは結局6月頭になった。
一日一組限定、貸切専門の価値は確実にあると張り切ってオープンしたが、時期としては梅雨も始まりかけの最低の時期となり、初月の客はゼロだった。単純にクラファン以外にPRに時間が使えなかった。

bokuyaの運営についてはここでは多くは語らないが、シーズンである10月も終わり、キャンプ場運営については今年は天気も振るわず、良い結果にはならなかったが改善案もあり良い客もついてくれたり、来年のイベントの予定や一度は車のCMの話も来たので今後もチャンスはあるだろう。

ただ、キャンプ場運営にも慣れてきて有り余る時間の中で悶々としていた。
キャンプ場のオープン・運営は一つの手段でしかなく、自分にとってはできて当たり前だったし、本当にやりたいことってよりは実績作りと遊び場づくりでしかなかったからだ。

今後も最大限価値を発揮していくが、キャンプ場で大儲けするのが目的ではない。そもそもそんな仕組みに最初からしていないのだ。

じゃあ これから僕はどこへ向かうのか。
いまだにわからないが、学ぶことだけは続けてきたと胸を張って言える。

先が常に未知であることが自分にとっての幸せなのかもしれない。

ちょっと長くなったが、次は今とやりたいこと。

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山浦昌浩
ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。