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【生い立ち/職務経歴】東京のゼネコン社員から、長野県原村の地域おこし協力隊に#2

こんばんは、長野県原村 地域おこし協力隊の、”うっちー”こと内田将大(うちだ まさひろ)です。

今回は、なぜ地域おこし協力隊の道を選んだのかが分かる、私の生い立ち/職務経歴について、お話していきたいと思います。


幼少期(1990~2004)


神奈川県厚木市で10歳まで生活したのち、親の仕事の都合で、10歳から英国ロンドンに4年滞在していました。
この話をすると、毎度毎度「英語ペラペラなんだね」と言われます。
が、残念ながら(幸運にも?)海外では数少ない日本人学校があるロンドン。ここに通っていたので、結果的にあまり英語は話せません。

英国では、”ナショナル・トラスト”が保護する庭園や建築、コッツウォルズ地方ののどかな風景、週末に開催される数々のアンティークマーケットなどに両親に連れて行ってもらったことを、今でも鮮明に覚えています。
この経験がもとで、築数百年の古い家に住むことがは当たり前の文化と、古き良きもの を活かし守る文化に感銘を受け、建築の道を志しました。


左が幼少期の筆者


中学・高校期(2004~2009)


4年間の英国ロンドンでの生活を経て、中学2年に親の実家 東京に帰国。
地元の公立中学に通いはじめるも、近所の友達も昔からの幼馴染もいない環境にさみしさを覚えていました。
東京に戻ってから、故郷がない“ふるさと難民”を意識しはじめました。


大学・大学院期(2009~2015)


大学は無事”建築学科”に進学することができ、右も左もわからない建築・設計の世界でもがきながら、日々設計・デザインを学んでいました。

そんな、課題にサークルに毎日忙しい生活を送っていた学部2年のある日。
2011年3月、東日本大震災を経験しました。

私は丁度、東京の某ゼネコンで模型作りのアルバイトを行っていました。幸いケガもありませんでしたが、地下鉄が完全にストップし、3時間ほど歩いて友人宅に宿泊しました。
そこで見たTVの映像が、私の人生を大きく変えました。

「なんて建築はもろいのか」 

夢にみて進んだ建築家の道、それが一瞬で絶望に変わってしまいました。
あまりにもショッキングな、人生のターニングポイントです。

2011年 宮城県気仙沼市の震災ボランティア、今は撤去された陸の大型漁船「第18共徳丸」


以降、地域にフォーカスして自らの足で様々な地域を訪れ、地域の魅力や課題を現地での対話を通じて、自らの肌で感じることを大切にしてきました。

東日本大震災後、2011~14年に訪問した主な地域


大学院からは都市計画系の研究室に進み、プロジェクトや個人活動を通じて、主に地方地域の活動に関わり続けました。

修士論文では、東北沿岸の「みちのく潮風トレイル」を実際に歩き、ヒアリングの記録をまとめました。論文の内容は、書籍に掲載されています。


2012年からは「地域づくりインターンの会」参加をきっかけに、新潟県小千谷市岩沢地区を訪れています。ここでの活動は、現在でも続けています!

これらの経験が、「地域おこし協力隊」のキャリアを選んだ大きなきっかけにつながっているのだと、思っています。


会社員時代(2015~2022)


「地域づくりのキャリアに進みたい!」

しかし、
 ・人並みの能力しかない自分にいったい何が出来る。
 ・そもそも自分には地元が無い。どの地域で活動するのか。
見当もつきませんでした。

そこで、
「建築の専門家となり、将来的に地域づくりに関わりたい」
そう考えて、就活の末、建築設計に強い某ゼネコンに入社が決まりました。ちなみに偶然ですが、2011年3月の震災時にバイトをしていた会社です。

社会人1年目は大阪・京都勤務、2年目以降は東京勤務。
都市開発系の採用のため、都心の大規模再開発を担当していました。
毎日深夜まで働くのが当たり前の状況のなかで、次第に「地域づくりのキャリアに進みたい!」の気持ちが沸き、退職を決めました。

設計の仕事で京都をフィールドサーベイしたときのメモスケッチ


長野県原村 地域おこし協力隊(2022~)


前職を辞め、2022年9月から長野県原村 地域おこし協力隊に着任、今に至ります。
夫婦で東京から長野県原村に移住し、村が加入する「日本で最も美しい村」連合の専任の推進役として、日々活動中です。


以上、私の生い立ちと職務経歴でした。
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それでは、次の記事でお会いしましょう!


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