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幕末戊辰の出来事を勝手に7つの習慣やレゴ®シリアスプレイ®と結びつけて強引に書いていく<5>

こんにちは。判官贔屓という言葉があるようにとかく何事においても敗者に肩入れをしてしまう。やっぱり日本人だからでしょうか。

前作はこちら。


時代に沿った価値観。

最近「辻政信の真実: 失踪60年--伝説の作戦参謀の謎を追う」という本を読みました。元陸軍参謀にして潜行三千里の末に衆議院議と参議院議員を次々に歴任。最後は東南アジアで消息を絶った辻政信は果たして勝者だったのか、それとも・・・。勝ち負けとは生き死になのだろうか、とか思わされてしまう。

幕末戊辰においてもそれは同じだと思います。生き残ったほうが幸せなのか武士として華々しい最期を遂げたほうがよいのか。まったく関係のない一個人が考えることではないかもしれないのだけれど、その時代に沿った価値観なんてものが存在するのは紛れもない事実であり認めざるを得ないですね。

自分自身の最期を思い描けているか。

レゴ®シリアスプレイ®のワークショップではよく、あるべき姿と現状とのギャップを明確にして、そのスペースに存在する何かを考えてもらうワークをおこないます。ここでもっとも重要なのは「終わりを思い描く」という7つの習慣の第2の習慣。自分自身の最期を思い描けているかどうかです。

幕末の武闘集団といえば新選組ですが上記のふたつの選択(生き残ることを選ぶか武士として戦いのなかで死すか)のあいだで揺れ動く隊士もいたことでしょう。当時にタイムスリップしてレゴ®シリアスプレイ®ワークショップができていればもしかすると選択肢の幅は広がったかもしれませんね。

生きる、に執着する。

新選組の名前を聞けば近藤勇と土方歳三のふたりが思いつくと思いますが、ふたりの史実を後世に伝えたのが大正4年(1915年)に亡くなった永倉新八です。鳥羽伏見の戦いから実に半世紀近くも生きたわけです。池田屋事件、前述の鳥羽伏見でも抜刀による果敢な突撃をしたにもかかわらず、である。

この本がとてもわかりやすいです。

永倉新八が終わりを思い描きながら戦っていたかどうかは正直わかりませんが結果としては幕末戊辰を生き延びたということにほかならない。そう考えると、生きる、に執着していたと言えるのだろうか。7つの習慣には劇作家のジョージ・バーナード・ショーの言葉で生きるについて書かれています。

したがって、命ある限りコミュニティのために尽くすことは私の名誉なのだ。死ぬときには自分のすべてを使い果たしていたい。なぜなら働けば働くほど、より生きているということだからだ。私は生きることにこの上ない歓びを感じる。

スティーブン・R・コヴィー「7つの習慣 人格主義の回復」
「第7の習慣:刃を研ぐ」社会・情緒的側面 より引用

背中合わせの死生観。

個人的にも死生観というものがあって(子供の頃に一度、生死の境を見た)いつ死んでも悔いのないように生きたいと努力しているつもりですが幕末期の志士に比べたらまだまだ。レゴブロックは使っていませんがふと「死ぬまでは 自分は死なぬと 思うこと」なんて言葉が頭にポッと浮かびました。

それこそ前述の永倉新八や鎮西藩主の林忠崇(〜昭和16年(1941年))のように幕末戊辰を越えて永く生きた方々の死生観を聴いてみたい気持ちがあります。いつの時代もそうなのですが特にこの幕末期の生と死が背中合わせの時代に惹かれてしまうのは、常に生死を意識しているからかもしれません。

最後に(最期に)。

新選組のことを色々と調べていたらこういう検定があるのを知って、なんとか三級を取得しました。イバの周りで新選組が好きな方、ぜひお話しをいたしましょう。

新選組検定三級認定証


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