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【感想】バラエティParavi『乃木坂に、越されました~AKB48、色々あってテレ東からの大逆襲!~』#0

新しい深夜番組が始まった。
なかなかどうして批評的なタイトルである。

乃木坂46の公式Twitterのプロフィール欄にはこの記述が今もある。

AKB48公式ライバルとして結成したアイドルグループです。

グループ名の「乃木坂」は、最終オーディション会場の「SME乃木坂ビル」に由来し「46」は、『AKB48より人数が少なくても負けないという意気込み(秋元康氏)』からです。よろしくお願いします。

「AKB48公式ライバル」
言われてみれば最初はそうだったっけという感じの、今ではほとんど聞かなくなった枕詞。
当時は「公式ライバルって何?」みたいな、ともすれば冷めた反応が世間では多かったように思うが、いつの間にか関係性が逆転して今回の番組に至ったということのようである。
「何を基準に越した・越されたを決めるのか?」という議論はあるかと思うが、非アイドルファン層(=世間)に対して乃木坂46の方がAKB48よりもリーチしているという点については確かに議論の余地は無いと思う。
(ちなみに日向坂46はお笑い・バラエティ適性を武器に追い上げてきているが、まだ乃木坂46を上回るには至っていないというのが僕の肌感)

そんな番組の初回放送は丸ごとAKB48の歴史を振り返るVTR。
この深夜番組をわざわざ見る人は恐らく知っている内容で、どちらかというと番組側の「当方はAKB48についてこういうスタンスですよ」という表明だったのかなと思う。
VTR中で述べられていた「乃木坂に越された」要因は2つ。
1. 競争というコンセプトを捨てた。
2. 会いに行けるアイドルというコンセプトがコロナ禍で難しくなった。

1については根拠となっているのがMVの台詞や楽曲のみで「うーん、もっと総選挙みたいな外側の仕掛けにこそ言及すべきでは?」とか言いたいこともあるんだけど(それも含めてこの番組を楽しみ方なのかもしれない)見立てとしてはそこまで悪くないと僕は思った。
一方で2はコロナ禍以前から乃木坂46に逆転されていたと思うので(後述)あまり関係ない気がする。

乃木坂46が誕生したのが2011年8月。
そのちょうど1年前の2010年8月、アイドル戦国時代が幕を開けた(とされている)

・この約2週間前にリリースされたのがAKB48の『ヘビーローテーション』
・前田敦子の卒業は乃木坂46誕生から1年後の2012年8月
・『恋するフォーチュンクッキー』のリリースは2013年8月
・生駒里奈と松井玲奈の交換留学は2014年2月〜2015年3月
・大島優子の卒業が2014年6月
・2016年12月にリリースされた『サヨナラの意味』が乃木坂46初のミリオンヒット
・渡辺麻友が卒業して初代神7が全員卒業したのが2017年12月
・同月、乃木坂46がレコード大賞を受賞(AKB48もノミネートしていたので直接対決を制した形に)

こうやって雑に並べてみると何となく2017年12月が(今から振り返ると)分岐点だったのかなぁという気がする。
なのでざっくり「2010年代前半はAKB48、2010年代後半は乃木坂46」という区分けで僕は捉えている。

では、AKB48が衰退したのが一定の事実だとして、乃木坂46がここまで大きくなった理由は何なのか?
これは「いや、どっちも秋元康のアイドルグループなんだから同じようなもんでしょ?AKBが売れたその次に乃木坂がプッシュされたってだけじゃないの?知らんけど」という乱暴な話で片付けられがちだが、考えれば考えるほどよく分からないテーマだと思っている。
何というか乃木坂46はしれっとヌルッと天下を取ってしまったと思うのだ。

ここで先ほど僕が「見立ては悪くない」といった「競争」の話に戻ってくる。
実は乃木坂46はいわゆるAKB48的な競争エンタメから一定の距離を取ってきたグループである。
2019年公開のドキュメンタリー映画の冒頭で岩下力監督はこういうテロップを付けている。

もしかしたら

彼女たちは

長い歳月をかけて純粋培養された、
極めて特殊な集団なのではないか。

異常に、仲が良かった。

この辺りは香月孝史さんの著書に詳しい。

第5章 ドキュメンタリーと「戦場」――異界としてのアイドルシーン
 1 アイドルのドキュメンタリーが映すもの
   リアリティショーの飽和
   ドキュメンタリーらしさの倒錯
   「戦場」のイメージ
 2 乃木坂46の「順応できなさ」
   競争的な役割への距離
   母あるいは一般人の視点
 3 「戦場」ではない道
   エトランゼの逡巡
   「仲の良さ」という日常性

ちなみに本書の主題はアイドルが“演じる”ことの意味。
そもそも「アイドルは演じるもの・作るものだ」というのはおニャン子クラブや小泉今日子『なんてったってアイドル』を通して秋元康が提示した価値観もとい事実である。
Netflixドラマ『全裸監督』でも描かれたAV黎明期に暴露された「普通の女の子なんて存在がいるとしたら、その子はやることやってるぞ」という事実に対するカウンターだった。

そこから25年近く経って乃木坂46が演劇をモチーフにしているというのは非常に興味深い。
これ以上はぜひ前述の本を読んでほしいのでこの辺りで。
(今日の記事は書評じゃないしね、と思っていたんだけど今ブクログを見たら僕しかレビューを書いていないのでもっと広めたいなという思いも生まれてきたw)
蛇足だが、日向坂46が(ある種露悪的に)『アザトカワイイ』を歌っているのもまた興味深い事象ではある。

ちょっと脱線してしまった。乃木坂46と競争の話である。
前述のように既に優れた批評が多数存在するので、ここでは「乃木坂46は競争と一定の距離を置いてきたグループ」という主張を再掲するに留める。

ここで話を大きく飛躍させるが、2010年代は日本においても格差社会が深刻化した10年間だった。
特に映画ファンなら異論は無いだろう。

同時期の傑作映画がいずれも格差社会をテーマにしている。
(ちなみに上記4作品を格差社会映画で一括りにするのは少々乱暴というのは重々分かっております)
これらの映画の公開時期は2018〜2019年だが、当然企画や脚本執筆はもっと前に行われている。
格差社会に対する問題意識を世界中のクリエイターが共有していたということである。
日本も例外ではなく、国はどんどん貧しくなる一方で競争に疲弊した空気が社会に蔓延している。
その中でAKB48よりも乃木坂46が選ばれたのは必然だったと思う。
AKB48を最初は珍しいものとして楽しんでいた社会が徐々に競争を見せられるのに疲れて乃木坂46に流れていく感じ。
ただ、社会にそういう空気が半ば病魔的にじわじわと広がっていくのと合わせて受け入れられていったので結果的にしれっとヌルッと天下を取った形になった。
いつの間にこんなに貧しい国になったんだっけ?と同じ理屈である。
念のため書くと「乃木坂46のせいで日本は同調圧力でみんな一緒に貧しくなったのだ」などと言うつもりは無い。乃木坂46にそんな影響力があるはずはなく、日本社会のそういうムードが先にあってそこに乃木坂46がたまたまハマったという話である。

また
・女性ファッション誌の専属モデルをやる
・逆に男性向け雑誌での水着グラビアをやらない
といった戦略で女性アイドルの在り方もこれまたしれっと変えてしまった。
アイドルが売っているのは疑似恋愛と言われてきたが、別にそれは異性愛に限らないという話だった。
言われてみればそりゃそうですよねと。
同性愛ではなくても同性から憧れの対象となるのも当たり前になった。
これって実は女性アイドル史におけるコペルニクス的転回というかパラダイムシフトだと思うのだが、AKB48と欅坂46(デビュー直後からロック音楽的な文脈でセンセーショナルに受け止められた)の間に挟まれたことであまり気付かれていないんじゃないだろうか。
ここでもしれっとヌルッとである。

なので乃木坂46と欅坂46をまとめて「大人や群衆と勝手に戦い始め」とした初回放送のVTRはちょっと解像度が低いかなと感じた。
いや、もしかしたら「顔面偏差値ルール違反アイドル」というシリアストーンの中で急に浮いてるテロップやそもそも「坂の上の雲」を引用したVTR構成などそれも狙いの内なのかもしれない。
何せ総合演出が高橋弘樹さんなのだから。

来週から本格始動でどんな番組になるのだろうか。

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