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【感想】劇場映画『キネマの神様』と原作小説とディレクターズカット版小説

映画を見る際に重視するポイントは何か?
自分の場合は撮影(印象的なショットやキマっている構図があるかどうかetc.)を特に楽しみにしている。
ちなみにドラマの場合は脚本(映画と違って6時間以上の尺になるのでどうしてもストーリーが面白くないと厳しい)
さらにちなみに編集と照明は映画でもドラマでも大切だと思っている。

で、実は本作を見た直後は正直あまりピンと来なかった。
上で挙げた撮影的な面白さを感じなかったなーと思ったのである。
が、小説のディレクターズ・カット版を読んだらそんなこともないかもしれないと思い始めた。

本作の原作は2008年に出版された原田マハの同名小説。

実はこの内容が映画版と大きく異なっている。
原作は映画作りではなく映画評論の話。
ゴウがギャンブル依存症のダメ親父という点は変わらないのだが、立ち直るきっかけは老舗映画誌のウェブサイトで映画評論を始めたことで、さらにそれが出版社や引きこもりの少年も救っていくというストーリー。
これはこれで悪くないのだが、2021年の今読み返すとやや牧歌的な感じがしてしまうのは正直なところ。
・インターネットに映画評論を投稿した際の誹謗中傷の描かれ方
・その映画評論が話題になることで出版社の経営が息を吹き返す過程の描かれ方
前者は細田守監督の『竜とそばかすの姫』、後者は吉田大八監督の『騙し絵の牙』という今年公開の映画で既に描かれているテーマ。

ちなみに原作小説には細田守監督の出世作であるアニメ版『時をかける少女』が登場する不思議な巡り合わせもあったり。

原作に忠実に映画化すると2021年に合わない古臭い作品になってしまうというのは確かである。

そこで山田洋次監督は映画作りの話に設定変更した上で、さらに現代パートと過去パートに分けるという大胆な改変を施した。
日本映画黄金時代の懐古と家族の再生の物語にフォーカスしており、時代性をそこまで伴わない普遍性を獲得している。
この辺りは60年近く映画を撮り続け、近作で家族を描き続けてきた山田洋次監督らしい味付け。

過去と現在を繋ぐVFX演出には何と山崎貴を起用(エンドクレジットで初めて知ったので驚いた)

『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズの実績を買われての起用なのかな?

また、現代パートと過去パートを行き来する構成は韓国映画の『サニー 永遠の仲間たち』っぽいなと見ながら思った。

ちなみに大根仁監督がリメイクした日本版はこちら。

現代パートのゴウ(沢田研二)はダメ人間であり家族も崩壊寸前というのを先に見せられているからこそ過去パートのゴウ(菅田将暉)や淑子(永野芽郁)の輝きが切なくなる。
彼らの語り合う夢が叶わなかったことを観客は知っているから。

ここで「すごい!原作と全然違う話になってるなー」と思いながらも撮影の面白さを見出せなかったという話に戻ろう。
まさに劇中でゴウが初監督作品の現場で独特な俯瞰アングルを提案してベテランスタッフから難色を示されるというシーンがある。
そこで「新しい映画を撮りたい」とゴウが訴えるのだけど、その割に本作の撮影はそこまでダイナミックな感じがしないなぁと思ってしまったのだ。

ところが帰宅してから原田マハが山田洋次の脚本を基に書き下ろした小説『キネマの神様 ディレクターズ・カット』を読んでいたらこんな文章が出てきた。

 古くせえ、と思っていた。「小田節」と呼ばれる気難しい演出法。俳優の身のこなしひとつにも細かくケチをつけてくる。ローアングルで定位置のカメラポジション。堅苦しいセット、厳しいルール。なんだこんな映画、いつかおれが蹴散らしてやる。若き日のゴウは、そんなふうに思っていた。
 だけどーー。
 なぜだろう。こうして観ていると、どのカットにも人間のみずみずしい生命力がみなぎっている。抑制の効いた画面とセリフで、登場人物たちの思いと葛藤、人生のやるせなさ、生きていることのどうしようもなさ、愛おしさがじわじわ伝わってくる。

なるほど山田洋次監督がやりたかったのはこういうことだったのかもしれない。
ちなみにここで言及されている「小田節」の「小田」とは劇中に出てくる小郎という大物監督キャラクターで、この文章は山田洋次が小津安二郎の作品に対して抱いていた思いそのままな気がするw
本作にも『東京物語』のオマージュがあるが、山田洋次は小津安二郎作品に対して批判的だったけど何かのきっかけでむしろ影響をがっつり受けるぐらいになったというエピソードがあったような?

撮影の快楽だけで映画を語れないという境地を34歳にして知る。
僕もまだまだでした。

ただ、とはいえ本作に対して絶賛という立場までは行かないのもまた事実でして…
自分が不満に感じた点をいくつか。

まず、ゴウが昔書いた脚本が現代パートで木戸賞を受賞するというくだり。
この脚本で面白いとされる部分が「主人公の女性が映画館で映画を見ていると、スクリーンの中のスター俳優が客席に飛び出してくる」というくだり。
今から50年前を舞台にした過去パートでこれが絶賛されて「スクリーンプロセスを使うんだ」とゴウが熱弁するシーンはまぁ分かるとして、2019年に応募した木戸賞で(いくら現代風にアレンジしたというエクスキューズはあるものの)いくらなんでも厳しいんじゃないかと。
というか、自分が小学生時代の1994-96年頃(父の仕事の都合で転校する前なのでこの3年間までは絞れる)に学校の授業で見た舞台でまさに時代劇の侍がスクリーンから飛び出てくるという演出があったんだよな。
鑑賞後の課題として書かされた感想文に「びっくりした」とバカすぎる文章を書いたのを覚えているw
逆に言えばこの経験があるから「え?スクリーンから飛び出るってそんなに凄いか…?」と思ってしまうのかもしれない。

次はコロナ禍の扱い。
上で2019年と書いた通り本作は明確にコロナ禍を描いている。
志村けん急逝のこともあり、避けては通れないと感じた山田洋次監督が脚本を修正したのだと思う。
そのこと自体は僕は特に問題は感じなかった。
緊急事態宣言によってテラシン(小林稔侍)が経営するミニシアターが苦境に陥るというのも実際に現実世界で起きたことである。
ただ、シネコンまでもが休業要請を受けたりHBO MaxやDisney+といった配信サービスが劇場と同時公開に踏み切るなどコロナ禍で映画文化・映画産業が受けた影響は本作の描写を遥かに超えてしまった。
なので1回目の緊急事態宣言(書きながら1回目とかもう随分昔のことに感じる)を受けてテアトル銀幕を閉館させるか否かを相談するくだりは「いや、もっと大変なことになるのよ…」と思ってしまう。
60年映画を撮り続けてきた山田洋次を以ってしても予想が及ばない範囲まで酷いことになってしまったというある意味ホラーの領域だ。

最後にツイートにも書いた淑子の迎えた結末について。
劇中ではゴウのギャンブル癖に現在進行形で苦しめられていることが描かれている。
映画では木戸賞の受賞をきっかけにゴウが再生の一歩を踏み始める。
テラシンも「今までダメだったとしてもこれから淑子を幸せにしてやれ」という趣旨の叱咤激励を入院中のゴウに向ける。
が、それでゴウが迎えるエンディングは…その後は描かれないが淑子はどうなってしまうんだ?
連帯保証人にはなってないって言ってたけど借金もあるしさ。
過去パートの永野芽郁も現代パートの宮本信子も好演で感情移入していただけにもう少し幸せな結末を用意してあげてほしかった。
何か『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の「マリが聖母すぎる問題」に通じるものを感じてしまう。

まぁ89歳の山田洋次監督に女性観のアップデートを求めるというのは俗に言う「昭和おじさん」に求めるのと違って口で言うより遥かに大変なことだとは思うのだけれど(そりゃアップデートできた方が良いに越したことはないが80年以上生きてきた価値観を変えろというのはそれもまた一種残酷なことではある)

最後つらつらと不満を書いてしまいましたが、僕のテンションとしては全否定でもないが絶賛でもないといった感じです。
まぁでも賛否でいうなら否にやや寄ってるかなぁ…

あ、めちゃ些細なことだけど普段あれだけカッコいいRADWIMPSの野田洋次郎があの風貌なら歳を重ねれば小林稔侍になりそうというのは個人的には驚きを通り越して衝撃に近かったですw
キャスティング担当の方は審美眼あるw

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いやはや雰囲気似てたなぁ。

映画『キネマの神様』は劇場で公開中
原作小説→映画→小説ディレクターズ・カット版という順がオススメ

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