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インクルーシブについて思うこと --- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」

インクルーシブという言葉がホットなわけだ。
インクルーシブ教育という使われ方をするのが一番目につくだろうか。

教育……教育、ねえ。

個人的には日本に合っているのは、インクルーシブなアトモスフィアなんじゃないかと思うのである。アトモスフィアがインクルーシブなら、それでいいのではないのかと。

教育と言い出すと途端に胡散臭くなる。教育とは理性で行うべきものであると、僕は考える。だからインクルーシブ教育も理性で行うべきである。
でも、日本の教育って、理性じゃないじゃん。むしろアトモスフィアじゃん。アトモスフィアを醸成しましょうってのが、日本の教育の本領発揮だったりするじゃん。

しかし、インクルーシブなアトモスフィアが悪いのかというと、そうでもない。

電車に乗っていたとする。僕は車椅子スペースのところに立っていることが多いが、車椅子の人が乗ってくればみんな場所を空ける。ベビーカーが乗ってくれば、場所を空ける。椅子に座っていても妊婦さんが来たら席を譲る。子供を抱っこしている人は難しいのだが、一応座りますかと聞いてみる。目が不自由な人がいたら、少なくとも邪魔にならないようにみんな進行方向はあける。うちの近くに、耳が不自由なひとが集まってやっている美容室があるんだけれど、安いこともあって繁盛している。まあ基本男性客だけど。

そんな感じで、僕が観測する範囲のアトモスフィアは、それなりにインクルーシブな感じである……気がする。
逆に、観測範囲外ってのがたくさんあって、そこまでインクルーシブなアトモスフィアなのかは分からない。多分違う気がする。違うってことになると、そこは底上げが必要で、底上げには教育が必要で、教育は理性で行うべきであり、理性的教育ってできますか?という話になる。

どうなのだろうね。

インクルーシブに必要なのは、多様性の受容であると思う。今の忙しすぎる学校の先生に、新たに受容する余裕があるようには思えない。多様性ってのは、障害だけじゃなくて(障害ってだけでも多種多様なんだけど)、障害とまではいかないけれど生きるのが大変とか、生きるのは問題ないけど仕事するとなると大変とか、国籍とか人種とかLGBTとか、なんか普通の人と違うとか、個性と言えば個性なんだけど個性の範囲を逸脱してないか?的な部分とか、結婚しない生き方とか。そういうの受け入れる土壌が、そもそも日本にあるのだろうか。全部画一的に押し込めて、みんな一緒のことをできるようにしようというのでは、インクルーシブなんかとても期待できない。

受容できないなら離れて暮らそうねというのも、考え方のひとつだと思う。
少なくとも、自分を認めてください!ずん!ずん!ずん!ずん!というのは、インクルーシブとはちと違うなあと思うわけだ。

息子の保育園の卒園式でのこと。息子は他の子供と並んで椅子に座っていた。そばに先生がついていることもなかった。卒園児は順番に名前を呼ばれて前に出て、園長先生から卒園証書を貰って、観客のほうを向いて小学校での抱負を言って、正面で待っている保護者に卒園証書を渡して席に戻る。どうするのだろうと思った。息子は喋れない。普段は加配の先生が横について息子のジェスチャーなどを汲み取って代弁してくれていると聞いている。しかし今日は先生もついていない。
名前を呼ばれた。息子はコースを間違えることもなく園長先生の前にいき、卒園証書を貰って、くるりとこちらを向いた。目を白黒させながら、彼なりに何かを言った。何を言ったのかは全然わからなかったけれど、彼なりに言葉を発した。そして正面で待っていた母親のところに言って、卒園証書を渡して自分の席に戻った。
よくぞ、やらせてくれた、と思った。先生に感謝した。特別扱いすることなく、できないならできないなりに、できる範囲のことを自力でやらせてくれた。
それに応えた息子も偉いが、息子を信じてやらせてくれた先生もすばらしい。
きっと何度も練習したのだろう。
息子のことを笑う子供はいなかった。
息子は確かに同じ仲間としてこの保育園にいたのだと思った。
それと同時に、みんなと一緒にいれるのは、ここまでだろうな、これが限界なんだろうな、とも思った。
この保育園には確かにインクルーシブな環境があった。しかし、この先に同じ環境がある保証はないし、その部分で戦うのはみんなが疲弊するだけだ。
少なくとも僕は、これで満足だった。
これ以上ない貴重な経験を、息子は保育園でしただろう。そして、友達も同じだろう。
それをかすかでもいいから覚えてくれていればいい。
それでいい、と思う。

(2018年12月28日記)

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