自閉スペクトラム症の早期介入のための実践倫理(日本行動分析学会2024自主シンポの指定討論補足)
表題のシンポの指定討論をお引き受けし、指定討論を行いました。ここでは当日の限られた時間で十分にお伝えできなかった内容を再整理してお伝えしてみたいと思います。
前提としては、行動分析学会でのシンポなので、ABAに基づく自閉スペクトラム症(ASD)に対する早期介入アプローチの歴史的経緯やその効果については話題提供者や聴取者である程度、共通理解されているという点からの議論となります。
・心理療法を開発・実施する行動への時代的要請と変化
ABAによるASDへの早期介入だけでなく、すべての「心理療法」について言えることであるが、「支援」を開発したり、実践したりする行動は、それが開発された時代の社会的要請という「随伴性」から逃れることはできない。
しかし、社会環境の変化に伴って要請も変化し、過去の「心理療法」や「支援」も場合によっては「不要なもの」、さらには「差別的なもの」「有害なもの」になってしまうことは、多くの歴史が証明している。
・支援の柔軟的見直しを継続する
ABAによるASDへの早期介入もその例外ではなく、時代とともに、「目標とされる行動」、「手続き」、「成果指標」というものの適切性や妥当性は常に見直されていく必要があるだろう。
・徹底的行動主義の哲学から答え合わせをする
支援者の側の支援行動や支援を見直す行動、ガイドラインを作成する行動などの「支援者や研究者自身の行動をも分析の対象とする」ことができるのは、徹底的行動主義という哲学を持つABAの特徴でもあるだろう。
こうした観点からABAの目標としている「社会的に重要な行動」とは何か、価値とは何かを再考していく時に指針となる哲学が、徹底的行動主義の哲学である。私たちは原点に戻りながら現在の自らの行動の答え合わせをしていくことが有用ではないかと思う。
徹底的行動主義に関しては行動分析学研究でも特集が組まれ、ABAについては山本(2021)に詳しい。
・社会的妥当性を重視する
支援に関して「目標とされる行動」、「手続き」、「成果指標」について、その適切性を研究者以外の人が評価する「社会的妥当性」という指標を持っているのもABAの特徴であり、これを見直し活用することが必要である。
杉山氏の指定討論で指摘された社会的妥当性の原典が書かれた1970年代は、米国での脱施設化の運動の中で、大規模施設から地域社会に出た人の行動上の課題について、抑制的な行動変容手続きが行われていた時代である。「社会的妥当性」の生まれた背景を考えながら原典を読んでみるのもよいだろう。
・身体的プロンプトと身体拘束の違いについて
不適切な行動を抑制しつつ望ましい行動へ導く「身体ガイダンス」(ガイダンスというよりはプロンプトという言葉が適当であろう)と不適切な行動を抑制する「身体拘束」の違いについては、機能的な違いは明確であるが、形態的に違いを明らかにすることは難しい。しかし竹島氏の指摘のように、現場では具体性が求められる場合もあり、藤坂氏の指摘のように現場での過度な萎縮が生じるのもよくない。
しかし、「身体的プロンプト」や「ガイダンス」はあくまで支援者側の視点から見た命名であり、本人・あるいは親や周囲の人々の視点からどのように捉えられるか、という他者視点の意識は必要であるし、そのリスクがあることを支援者側は知るとともに、職場でのミーティングなどで議論しながら独善的にならないように倫理性を高めるとともに、身体的プロンプトの使用に依存しない技術を高めていくことが必要であろう。
一方、誤解を防ぐためにも、支援者は「身体的プロンプトをしていますよ」ということを明示し、表現する必要があるかもしれない。
・「支援手続きの伝え方」を工夫する
こうした動きの一つかもしれないが、例えば最近「Kind Extinction」という言葉が聞かれるようになった。
Tarbox, C., Tarbox, J., Bermudez, T. L., Silverman, E., & Servellon, L. (2023). Kind extinction: A procedural variation on traditional extinction. Behavior Analysis in Practice, 1-11.
例えば問題となる行動の強化子が注目でなく、物の要求や回避であれば、その際の消去手続き(強化しない)場合、消去手続きを適用されている対象に対して、感情に寄り添う言葉をかけながら消去を行うということである。
例えば、「ゲームやりたくてたまんないよね、でもしかたないね」という言葉をかけ、気持ちに寄り添いつつも、ゲームは与えない(消去)をする、という感じである。
・命名するメリット
これは上手なセラピストだと普通にやっていることである。私がこのようなテクニックに「命名」がなされたり、論文化されたりすることに関して、「意外に良いなぁ」と思うのは、その対応がなにより対象者にとって優しいものとなり、効果的であり、そのテクニックが広がるということでもあるが、他に2つのメリットがあると考える。
①結果として機能的行動アセスメントが推進される
Kind Extinctionを行うためには、注目が強化子として機能していない、あるいはその機能が弱いということをアセスメントをせざる得なくなり、結果として機能的行動アセスメントが推進される。
②第三者に手続きとして何を狙っているかが伝わりやすくなる
後で述べる社会的妥当性についても重なるが、支援や介入を第三者が観察した場合に生じる「誤解」を避ける必要がある。
Kind Extinctionがそれをどの程度それを促進するかは、更なるデータが必要であろう。身体的プロンプトも例えばKind Physical Promptを開発し、それを活用するということも「伝える」努力として必要であろう。
・様々な社会的妥当性を階層によって使い分ける
社会的妥当性の評価はABAでは広く認知されており、支援の目標とされる行動、手続き、効果が社会的に妥当であるかを評価するものであるが、ABA学術論文の中でも評価対象者を誰にするかという厳格な基準はないように思える。しかし社会的妥当性評価に際して、どういった社会的対象にその妥当性を評価しているかという問題は重要である。
例えば「ジャーナルの掲載という行動随伴性の中での社会的妥当性」では、同業者の査読者を納得される水準が要求される。この場合は、当事者や親、周囲の支援者が主になるかもしれない。
しかし実践の中で社会的妥当性評価の対象をどのように決定するかは熟慮すべき問題がある。例えば学校で自発的に教室に入ろうとしない生徒に対して身体的プロンプトを実施した場合、中心的にかかわった教師以外にそれを見ている第三者の教師がいる。この場合、第三者的教師が身体プロンプトを身体拘束として捉えてしまうリスクもあるわけである。このような場合、たとえその支援が成功していたとしても職場の中での共同は困難になるかもしれない。この場合は第三者的教師を社会的妥当性の評価対象にすべきかもしれない。
に
さらに特定の実践をしているメディアやSNSなどによって、一般の人が支援動画を見る可能性もある。このような中で、前出の「伝える努力」の必要性は高まる傾向にあるのではないだろうか。
最後に各話題提供者に対するコメントとして以下のようにまとめました。
熊氏
「公的支援としてのABA」を目指すのであれば、一般社会に向けての社会的妥当性を重視した公的なガイドラインと「見せ方の努力」が必要である。
藤坂氏 竹島氏
身体的プロンプトについて、何が良くて何が良くないかを臨床家の共同体や組織内で真摯に議論し続けていくことは有用である。徹底的行動主義の哲学におけるABAの定義にある「社会的に重要な行動とその貢献」とはなにかをスタッフと共に共有し、支援目標、手続き、効果についての妥当性や価値を継続的に検証しつつ、自分たちのガイドラインを作っていくことが重要ではないか。
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