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父親と私の人生と

去年の誕生日にFBに投稿した内容を再編しています。

人生を振り返る事は時に胸をえぐる辛さを
追体験しなければならない事もありますが、
そこを乗り越えたからこその今の自分であり、そのことを自分の強さやエネルギー、パワーや持ち味にプラスに変換することが出来ると私は信じています。
FBは流れて行ってしまうので、改めてnoteに記します。



私の父は1941年生まれ
岩手県水沢市出身
2つ下の後輩に小沢一郎を輩出した
県立水沢高校卒業後国立福井大学入学
本当は東北大学に行きたかったらしいですが
多分落ちたのでしょう😅
私達には受験当日風邪を引いたとのたまっていました😅
学生時代は競輪場でバイトしていたので
自転車の修理が異常に上手かった🤣
卒業後㈱佐藤工業入社
(黒部ダム作ってた会社)
26歳で1級建築士に
地図に残る仕事がしたかったそうです
横浜の若葉台団地や神奈川県内のライオンズマンションなどの建設現場の現場監督として活躍
仕事の出来る男だったようです
故にあちこちの女に手を出して
最終的にばら撒いた種がヒット😭
それまでコツコツと貯めたお金と
家族からの信頼を一気に失うハメに
52歳でデカい大腸ガン発見
すでに肝臓に転移
手術したくなくて医者に
「手術しないとあとどのくらい生きられます?」と聞き(どんなメンタルじゃ‼️)
「3ヶ月です」と言われ
渋々手術することに
禁煙を強要されて辛くて紙タバコをちり紙にほぐして匂いを嗅いでみたり
手術前の絶食で辛いのに
わざわざ売店でオレンジページを買い
美味しそうな料理を見ながら
「元気になったらこれも食うし、あれも食う‼️」と辛さ倍増させながら食べ物への異常な執着を見せたり😅
幸い手術は成功し
肝臓は2/3切り取られ
大腸も肛門と繋がり
その後再発や人工肛門と戦いながらも
ポツポツと仕事に復帰したり
叶わなかったけれど
一級建築士事務所を作る準備をしたり
調子のいい時は会いたい人に会いに行き
南米を旅行したり
抗がん剤を打ちつつも
その異常な生への執着心と生命力で
生き抜きました
生きていれば今80歳でしたが
2000年1月3日に最終的にガンに全身侵され
59歳で亡くなりました
「俺も年金もらってみたかった」
という名言は一生忘れられません🤣

私にとっては他所で子種をばらまき
家で偉そうに居直る
クソオヤジでしかありませんでしたが
お蔭でこの世に生を受け
「お前はバカじゃない」
という言葉によって
本当にバカな真似ができなくなったり
「いちばん大事なのは愛だ」
というお前が言うな‼️それで種ばらまかれたらエライ迷惑なんじゃボケェ‼️というツッコミを入れたくなる言葉を刻みつけさせたり
食べさせてもらって無事に大人にしてもらい
私もどうやら少しはまともに生きられるようになりました
今では全てが浄化され
(死んだ人間の悪口は言い辛い😅)
たまに思い出しては
こんな時うちのオヤジならどんなふうにしたろうか〜などと考える事も増えてきました

うちのオヤジが私達にした事は
決して良い事ではないけれど
オヤジは悪い人間という訳ではない
起きた事は結果不運だけれども
不幸ではない
「タダ飯は美味いか?」
「誰のお陰で飯が食えると思ってるんだ」
そう言われても黙って我慢するしかない
私にとってクソオヤジだけれども
結果その反骨精神が今の私を奮い立たせ
男の馬鹿さ加減を教えてくれた

親は家族にとって良い親である必要は全く無い

やりたい事を全力でやり抜き
結果を誰かのせいにせずに
一人で死んでいく姿を
全く美化せずに
私に見せてくれた
生きる事への執着が凄い生命力を呼び起こす事を証明して見せてくれた
医者がやらなくていいという抗がん剤を最後までうち続けて闘う姿は
医者に「勇敢な患者さんでした」と言わしめた

もうそれだけで十分価値のある父親である

そうやって日々を過ごせば
子供が過度の期待に押し潰される事はなくなる

「責任を持って自由に生きろ」

これが父の教えだと思う


「人に雇われているうちはだめだ」

父がポツリと呟いた言葉が忘れられず
今日に至ります



今改めて振り返ると

あのときの絶望感やぶつけようのない怒り

たった14歳の自分がどうやって立ち直ったのか、実は記憶にあまりありません。

毎日母が出してくれるものを残さず食べ
毎日学校へ行き
部活とサッカーに明け暮れ
現実逃避していただけなのかもしれない

心の中はその後も怒りと憎しみに支配されていました

卑屈で自虐的だった

世を呪って人を恨んで
全てをなにかのせいにしていた

やたらとポジティブに生きているこの私が!

実はネガティブの塊だった

26歳のとき父親が亡くなった後
仕事場での人間関係が破綻しかかったとき
頑張っても頑張っても指の間から幸せがこぼれていってしまうようで
生まれて初めて死にたいと思って
1人暮らしの六畳一間のアパートで
包丁を握りしめた事もあった
その時は何故か隣の住む親切な大家さんが心に浮かんできて「あぁ大家さんに迷惑かけられないなぁ、とりあえず横になって死ぬかどうかは明日朝起きてから外に行ってから考えよう」と回避した。(大家さんグッジョブ)

私は前回のnoteで記した通りそもそも死ぬようなたまではなかったので
泣きはらしたきったない顔のまま
逃げすに職場に行き仕事をした

父親の事で耐性があったお陰で
食い扶持だけは稼ぐ事が出来た

毎日毎日生き地獄のような環境でも
仕事だけは裏切らない
人間は平気で裏切るけれど
仕事は裏切らない事を身を持って知った

ある日、書店で「許すということ」
というG.ジャンポルスキーさんという方が書いた本と出会った
「許す?できるわけねーじゃねーか!」
と思っていたくせに何故か買って帰った

その本との出会いが私を変えた

「許すのに遅いも早いもない。たとえ相手がこの世にいなくても。許すことで自分を開放出来る。
許すか、許さないかどちらかしかなく選ぶのは自分。
許さずに怒りと憎しみの檻に自分を閉じ込めるのか、そこから出て自由になるか自分で選びなさい。敵は相手ではない。自分自身である。」

きゅうっと凝縮するとこんな内容。

私は私自身を怒りの檻に10年以上閉じ込めて
世を呪い人を憎んでその事を正当化していた

でもそれが自分で選んで
自分に課して来たことに気がついた

違う生き方があるのか?
許さずにいる自分は
許そうとする自分に問いかける
「許せばまた同じ目に合うかもよ」
「許しちゃ駄目だよ」



私は許す事にした
父親だけでなく
職場の人だけでなく
10年以上怒りの檻に自分を閉じ込めて
呪いと憎しみに縛っていた自分自身を

私は生まれ変わった
それだけでもう幸せだった
もう怒りや憎しみにとらわれずに生きる事が出来る
それだけで生きていて良かった
死ななくて良かったと思った

自分という宝物を見つけ
彼方に探しにいかなくなった

父親の事
サッカーの事
仕事の事
人間関係の事

ゆるすということ

全部点が繋がって今に至ります


だから全てに感謝です
偶然ではなく必然で
悲しい事苦しい事辛い事が起きて
でもそれをプラスに変えて自分の糧に変換出来る事が良くわかりました

そして生まれてから今に至るまで
出会って私を導いてくださった方々
これも偶然ではなく必然であったと考えてまいます

全てに感謝してできることで貢献して生きたいと心から思っています

長文お読み下さりありがとうございました!




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