第23回:『Hors normes』(2019)
ふと「なぜこんなに時間をかけてまで文章を書くのか」と思うときがある。
僕はいわゆる「遅筆」という性質で、1本の文章を書くのに3~4時間とか、内容によってはもっとかかることもあります。特に時間がかかるのが、今もこうしてたまにnoteに公開するエッセイの類。書きながら「この文章って何を言いたいの?」とか「この表現、言い回しは意味的に合ってるの?」とか、まるで横からツッコミを受けているような感じで、一向に筆(?)が進みません。
それに、書いたエッセイが読まれるとも限らない。
たとえば、僕がこのマガジンで書くような映画評を例にすると、多いもので1作品につき何十、何百という映画評・レビューがある。そんな膨大な映画評を前にして、単なる映画好きの僕が書いた文章が読まれるのだろうかと思ってしまう。もちろん、題材にする映画を細かく探せば誰も触れていないものもあるかもしれないけれど、だからといってそういうニッチな映画評を書きたいか?と言われると、うーん。
傍から見れば、誰も読まない文章を時間をかけて書いている僕。控えめに言って「生産性が低い」とも思う。
意味があるとはどういうことを指すのか?
「生産性」という言葉について。
この言葉はもともと、投資(インプット)に対する生産(アウトプット)を測る指標として使われていましたが、今では「あの人は生産性が高いね」のように、人に対しても使われています。
たとえば、アップルのシステムエンジニアはシリコンバレーの平均的なシステムエンジニアの9倍も多いコードを1日で書くというし、ニューヨークのレストラン、ル・ベルナルダンで一番腕のいい鮮魚担当者は、ニューヨークの平均的な料理人より3倍も多く魚をさばけるという。普通の人が1日でできる量を半日とか、場合によってはもっと短くできるなんて、すごいですよね。
でも、彼らをすごいと思う一方で、成果が測りにくい分野のことだったら?とも思う。
たとえば、コードを人よりも多く書けたとしても本来そのコードが必要ないものだったとしたら。もっと別の書き方をすれば、容量も抑えた状態でプログラムを動かせる場合もあるかもしれない。鮮魚担当にしたってさばく魚の種類が違えば、どうだろう。スズキは効率よく捌けるけど、アナゴやウナギは苦手ということもあるかもしれない。
それに現代は、仕事の量も質もだいぶ変化しているから、1つのことを極めてるような仕事の仕方って、ほとんど無いんじゃないか。僕は編集者をしているけど、文章の企画・編集以外にもいろんなことをしています。例えば、コピーを書くこともそうだし、進行管理のようなこともしているし、マネジメント(に毛が生えたようなもの)も。
その意味で僕の生産性は、高いものもあれば低いものもある……というのが答えです。他の人にしたって、そういうものだと思っているけど、みなさんの周りには生産性の高い、優秀な人っていますか?
映画:『Hors Normes』(2019)
『Hors Nomes(規格外)』という映画がある。監督はエリック・トレダノとオリヴィエ・ナカシュのコンビで、実話をもとにした作品です。
ごく簡単にあらすじを説明すると、ブリュノ(ヴァンサン・カッセル)が運営する自閉症ケア施設<正義の声>の存続をめぐって行政の担当者と揉めるという話。というのも、この施設は長年赤字続きで、しかも行政の認可も受けていなかった。それに、ケアワーカーたちもマリク(レダ・カテブ)が運営するドロップアウトした若者の社会復帰を目指す団体<寄港>のメンバーたちで、ほとんどが「無資格」で活動している。行政側から見れば、まさに「目の上のたんこぶ」的な存在だった。
もちろん、認可された施設なら安全性や衛生面での不安は、<正義の声>に比べればずっと低い。しかし、一方で施設で受け入れられるキャパシティが厳格に決まっているから、受け入れを拒否されてしまう人たちがいることもまた、事実ではある。そうした人たちを受け入れているのが、ブリュノの<正義の声>だった。
理想はある。けれど、現実は。
行政の担当者の指摘は、ある意味で正しい。
度重なる自傷行為によって施設から転院を余儀なくされたヴァランタン(マルコ・ロカテッリ)。次の施設を見つけるまで、ホテルの一室で寄港のメンバー、ディラン(ブライアン・ミアロンダマ)と2人で過ごすことになるのだが、ふと目を離した隙に部屋から脱走し、行方をくらましてしまう。
金曜の夜といえば、ユダヤ教徒のブリュノにとって重要な「安息日(シャバット)」の日。金曜日の日没から土曜日の日没まで、ユダヤ教徒は家で過ごし、基本的には仕事(ハラハー)を一切しないことになっている。僕も昔、イスラエルを旅行したときに安息日を体験してみたんだけど、部屋を暗くしてロウソクを灯し、家族みんなで集まって安息日の祈りを唱え、歌を歌って過ごした。言葉の意味どおり、静かに休む一日でした。
しかしメンバーからの連絡を受け、ブリュノはすぐにヴァランタンを探しに行く。街の至る所を探し回るメンバーたち。そして遂に、高架道路の歩道を歩いているヴァランタンを見つけ、何とか助け出すことができた。
重い自閉症の子どもは突発的な行動に移ることがある。ヴァランタンにしてもこれまでの施設を離れて見ず知らずのホテルに連れ出され、環境の変化についていけなかったかもしれない。もしかしたら家族やもとの施設に戻ろうとしていたのかもしれない。担当者が言うように、車道に飛び出して車に轢かれたら?命の保証はない。奇跡的に助かっただけなのだ。その意味で、ブリュノの活動には、重いリスクが伴っています。
しかし、なぜブリュノやマリクは活動を続けるのだろうか。金儲けのため?なら、15年間も赤字経営の団体をつくったりしないだろう。人から良く思われたいから? なら、自分のプライベートを犠牲にして24時間365日緊急で対応したりはしないだろう。毎週月曜日とか、曜日や時間を決めてきっちり仕事とプライベートを分けるかもしれない。いったいなぜ、彼らは活動を続けるのだろう。
あなたがいるから、僕がいる。
これは1つの解釈に過ぎないけれど、ブリュノやマリクの活動は、すべてが善意というのでもない。言い方を選ばずに言うと、自閉症の子どもたちと関わることによってマリクは若者の社会復帰のきっかけを作っているし、ブリュノにしてもボランティアによってユダヤ教徒の義務を果たそうとしているのかもしれない(これは直接的な表現が無いので個人的な主観)。自分の存在理由を見出すために、自閉症の子どもたちを「利用している」とも受けとれる。
けれど。それによって救われる子どもや家族がいる。
僕の意見はラディカルで原理原則からはほど遠いかもしれないけれど。
けれど。お互いがお互いを必要とすることで成り立っている関係がある。偽善かも知れない、良い人でいたいだけかも知れない。まさに作中でブリュノが行政の担当者に言われるように「白い騎士」になりたいだけかもしれない。
あなたがいて、僕がいる。これによって成り立つ関係。お互いがお互いを必要としているなんて、とても素晴らしいことだと僕は思います。
無駄や効率という言葉によって、「見落とされる」もの
もちろん、だからといって何でもありかというと、それも違う。作中でも自閉症のジョゼフが何度も駅の緊急停止ボタンを押してしまったり、就労先の女性に過度なスキンシップを求めてしまったりというとこともある。全てがうまく、丸く収まる物事ばかりじゃない。でも、この映画を見ているとそうした物事をひっくるめた「寛容さ」というものを持ちたいなと思わされます。本当はこういう直接的な感想は言いたくないんだけど、言わなくちゃいけないような気がしたので。
それにしても、冒頭で言ったように僕の生産性は高いものもあれば低いものもあります。おそらく、これを読むあなたにしてもそう。得意不得意があるし、経験の差だってもちろんある。だからこそ、お互いがお互いを補い合えるのが良いと思うんだけど。
どうだろう。誰か執筆の遅い僕に代わって文章を書いてくれませんか?
よろしくお願いします。その分、僕は、何ができるかな? とりあえず美味しいコーヒーを淹れることくらいなら、できるかもしれない。
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