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第15回:『おいしいコーヒーの真実』(2006)

忘れもしない、コーヒー体験がある。

あれは2015年6月の半ば頃、大学に入ってすぐにはじめたカフェのバイト中のことだった。2つ年上の先輩が苦いだけがコーヒーじゃないよと、僕に1杯のコーヒーを淹れてくれた。

苦いだけがコーヒーじゃない? 当時の僕は、カフェに勤めていながらコーヒーの苦さが嫌いで、いつもミルクティーかココアを飲むような少年だったから、先輩の言葉が信じられずにいた。慣れた手付きでコーヒーを抽出する先輩。確かに、そのコーヒーはいつも見ているものとは違い、透き通った赤色をしていた。でもだからといって苦くないと言えるのか。薄く淹れただけじゃないのか。半信半疑のまま、おそるおそるカップを手に取り苦味を無視するように胃の中にサッと流し込もうと液体に口をつけたその瞬間。発熱したかのような震えを伴いながら、ものすごい勢いでコーヒーが身体中を駆け巡るような興奮を覚えた。 え?え?これは何だ?と、疑問符が頭の中を埋め尽くし、思考が追いつかない。最初はトマトジュースのような濃厚な酸味で、徐々にチョコレートの甘さが広がってくるような味で。クリーンだけど濃厚、甘いんだけど苦味もある。言葉にすると相反する2つの味で分かりにくいけど、事実、そうなのだから仕方ない。

気がつけばカップの中の液体は、一滴も残っていなかった。驚く僕にニヤリと笑う先輩。その顔は、ようやく気が付いたねとでも言いたげな表情だった。



あのときの衝撃は、今でも昨日のことのように思い出せる。以来僕は、コーヒーにのめり込み、大学をサボって東京を中心に様々なロースターを訪れコーヒーを飲み、豆を買った。抽出器具もドリップ用からフレンチプレス、エアロプレス、アメリカンプレス、そしてついに家庭用エスプレッソマシンまで用意して(でもこれは失敗だった。なぜならポンプの関係で最適な圧力がかからず、水っぽいエスプレッソしか抽出できなかったから)、アルバイト中も先ほどの先輩とああでもないこうでもないと豆に合った抽出方法を試しながら、コーヒーの知識を蓄えた。コーヒーを飲みすぎて急性カフェイン中毒のような症状になったのもこのときだった。ただ純粋に楽しかった。コーヒー1杯に無限の可能性があると知ったから。おかげで、大学の単位と給料のほとんどが消えてなくなってしまったけれど。


ただ、その純粋に楽しんでいたコーヒーの裏側に、見たくない現実があることを知ったのは、それから数年後のこと。きっかけは1本の映画だった。


『おいしいコーヒーの真実(原題:BLACK GOLD)』(2006)

正直に言うと見たくなかったのではなくと「知ろうとしなかった」に近い。この映画は英米合作のドキュメンタリー映画で、エチオピアのコーヒー生産者の地位向上を目指して活動するタデッセ・メスケラに焦点を当てた作品だ。

コーヒーは全世界で1日に約25億杯も飲まれていて、目覚めの一杯から夜を共にするカクテルまで、生活に欠かせない存在になっている。しかし、一方でその対価が十分に支払われているとは言えない。というのは、コーヒー生産者に支払われる対価は、1杯のうちわずか2~3%とも言われているからだ。仮に300円のコーヒーなら6~9円のみで、残りの殆どはバイヤーやロースター(焙煎業者)、カフェのような中間業者に支払われている。豆がなければコーヒーは作れない。にもかかわらず支払われるのは、そのわずか2~3%。この現状を変えようとタデッセは、生産者組合を作り、大手バイヤーやロースターと直接交渉を行い、待遇改善を目指している。その様子を、一台のカメラが追っている。


根深い構造的課題

そもそも、一体なぜこのような状況になっているのか。様々な要因はあれど1つには、システム化したサプライチェーン上に潜む「構造的課題」が絡んでくると思う。作中でタデッセは政府主催のコーヒー競売の様子を見ながらこう話す。

ここにいるバイヤーや輸出業者は購入したコーヒーを倉庫で加工する。その後海外のバイヤーへ売り海外バイヤーは焙煎業者へ卸す。この焙煎業者がコーヒーを焙煎してから小売店やカフェへ売るんだ。消費者に届くまで6度の仲介が入る。

現地の生産者が加工場(精製所)に豆を売り加工場がバイヤーへ売る。その後、運送業者が各地へコーヒー豆を運び、焙煎業者が買い取り、カフェに卸す。そのたびにコストを上乗せして取引するから、段々と価格が膨れ上がっていって、僕らの手元に届くには、当初の売値の何百倍になってしまう。



くわえて「先物取引」という取引形態も大きく影響している。コーヒーのような「コモディティ」は、生活必需品と考えられており、収穫高の変化で価格変動が起きないよう、あらかじめ取引が行われているのだ。もちろん、先物取引には天候悪化などによる生産高の減少に対してリスクヘッジができるというメリットがある。しかし、生産にかかるコストや品質といった要素ではなく市場の需給バランスによって価格が決まるため、極端に言えばどれだけ時間とお金をかけて生産したコーヒーとそうでないコーヒーも一緒に扱われてしまうデメリットもある。それに、価格を決めるのはニューヨークの取引市場。顔も姿も見えない誰かが価格を決め、生産者はそれを受け入れるか否かという選択肢しかない。果たしてこの構造で、適切な価格が支払われるのだろうか?

コーヒーの収穫時期になると仲買人がやってきて俺たちにこう言う。
「1キロ0.75ブルで買う」 交渉の余地もなく値段が決まってしまう。
俺たちは相場を知らないし、ヤツらの言いなりだ。
ちゃんとした価格で取引してほしいよ

だからこそタデッセは、生産者と焙煎業者が直接つながる「ダイレクトトレード」に注目し活動を続ける。ダイレクトトレードであれば、市場から独立して取引するため生産者に対価を還元しやすいからだ。それに商品の品質管理やロット分けも生産者側で行うことで、直接的に品質に関する情報提供もできる。品質への不安解消にもつながり、継続的な取引が生まれやすい。

私たちは供給業などの中間業者を省きたい。農協や組合を介して生産者が直接、焙煎業者に売れるように努力している。それが実現すれば約6割の中間コストが削減できる


とはいえ、ダイレクトトレードにも賛否両論ある。一般的にダイレクトトレードの取引量はコンテナ単位で重さにすると18トン、麻袋にして300袋。小規模ロースターで月に焙煎する量が100~200kgと考えると焼き切るのに最低でも7年はかかってしまう量だから、小規模焙煎業者は取り組みにくいのだ。

仮に1コンテナで取引しても焙煎を待っている間ずっと管理コストは発生しているし、そもそも1つの種類を何年も売り続けることなどできない。たとえ複数の小規模ロースターが協同で買い付けようとしても、生産者が高品質なコーヒーを都合よく分けてくれるとも限らない。大手ロースターの取引歴・資本力の前には、小ロットで買いたい小規模ロースターは相対的に魅力が損なわれてしまうから。もちろん、こうした現状に対し近年はニューヨーク市場とは別のダイレクトトレード用プラットフォームを作ったり、小ロットでも販売に応じる生産者が増えたりと徐々に取引の形が変わりつつある。「サードウェーブコーヒー」に代表される僕ら消費者の意識も変化しつつある。ただ、僕は思うんだけど単に「適切な価格を支払う」だけで、構造的課題が解決するとは思えない。100g2000円のコーヒーを適正価格だと思う人もいれば、100g300円でも高いと思う人もいる。それに、生産者間での競争も激化するだろう。設備のある生産者はスペシャルティコーヒーの開発に注力できる一方で、そうでない生産者はずっとコモディティコーヒーを作り続けるようなことだって起こり得る。



明確な「悪」がいない世界で

そもそも、システム化されたサプライチェーンに課題があると思っているが、この話に明確な「悪」は存在していない。ポジティブに見れば輸出業者やバイヤーは様々な国においしいコーヒーを届ける役割を担っているし、彼らが大量に仕入れることで小規模焙煎業者は必要な分だけコーヒーを買うことができる。先物取引にしたって必需品の急激な価格変動を抑えることで、日常生活の安定に役立っている。このドキュメンタリーは、エチオピアの生産者目線で描かれているからその負の面が強調されているものの、彼らが被害者でヨーロッパのコーヒー業者が加害者だと断定することはできない。他にもエチオピア政府の農業政策、地理的状況、さかのぼれば植民地化された「歴史そのもの」に課題があるとも言える。要素をあげれば、きりがないのだ。

しかし、だからといってコーヒー業界の構造的課題を放置して良いわけではない。それに、コーヒーだけでなく他の農作物も僕らの労働環境も同じような課題を抱えている。ドキュメンタリーに映る彼らと僕らに、どんな違いがあると言うのだろうか? 映像を見ながら考え込んでしまった。


今日の朝、飲んだコーヒーは、エチオピア イルガチェフェのコンガという地区の豆。アンドレス グアカという農園のものでベリーのように甘く、桃のようなみずみずしさがあった。もし、このコーヒーが飲めなくなってしまったら。そう思うと悲しい気持ちになる。


知ることからしか、はじまらない

構造的課題を一挙に解決する方法は持っていないけれど、多分最初の一歩くらいにはなるんじゃないか。それこそ、踏み出してみないと次には進めないだろうし。コーヒーラバーとして、この社会に暮らす一人の人間として。まずは、知ることからはじめたいと思う。


P.S.2020年のインタビューでタデッセの地区はダイレクトトレードによって農家の利益が250%増加したという。本当に良かった。(出典:"Collaborating to Create Prosperity" tharawat magazine

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