見出し画像

第5回:『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016)

「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は、アメリカはマサチューセッツ州にある人口約5000人の小さな町のこと。大西洋につながるマサチューセッツ湾の北側に面し、7つのビーチといくつかの島々が点在しているような場所だ。もともとは漁村だったが、今は裕福なボストン人のリゾート地として、夏になれば多くの人で賑わいを見せる。


「美しさと侘しさを感じる場所」。映画『マンチェスター・バイ・ザ・シー』の監督ケネス・ロナーガンは街をそう表現する。確かに海は春から夏にかけては穏やかに凪いでいて、遠くに見える島々が荒れ狂う大西洋から街を守っているかのよう。しかし夏が終われば人々は、その荒れ狂う大西洋へ船出していってしまう。美しくも侘しい場所。それが、マンチェスター・バイ・ザ・シーだ。


正直なところ、この映画を「映画の"瞬間"」の題材として書けないというか、書きたくないというのが本音だ。でもなぜか、「書かなくちゃいけない」ということだけは分かっている。

忘れられない過去を持った男と、向き合いたくない現実を持った少年

ケイシー・アフレック演じるリー・チャンドラーは、ボストンに住むアパートの便利屋。配管工事やトイレ修理などをしながら、半地下の暗い部屋でひっそりと暮らしている。仕事の腕は良いが愛想が悪い。それが原因で、アパートの住人からは評判があまり良くないが、本人は知ってか知らずか、態度を改めるような素振りは見られない。


ある冬の日、リーのもとへ一本の電話が。それは、兄ジョーの訃報を知らせる電話だった。車を走らせ故郷に向かうリー。しかしその顔はどことなく浮かない様子で、後ろめたさを感じさせる。それは、兄が死んだこともそうだが、今向かっている故郷は彼にとって、思い出したくない記憶のある場所だから……。

作品はリーが思い出したくない過去と、今、彼が生きている現実を交互に繰り返し見せながら進む。そしてその過去はだんだんと「ある出来事」が起きた場面に迫っていく。すでにその過去の出来事から長い時間が経っているにもかかわらずリーの記憶は鮮明で、とても瑞々しい(こういう表現が正しいのかは分からないが)。まるで、リーが未だにその過去に囚われ続けていることを多分に示しているかのように。


自分の話になるが、昔の記憶を忘れられたらと、思うことがある。過去の失敗・後悔を忘れられたらどんなに気持ちが軽くなるか。出来事そのものを無いものとして新しい一歩を踏み出すことができたら、どれだけ良いかと思う。

冒頭で僕が書きたくないといったのは、大きく言うとリーの状況が自分と重なる部分が少からずあるからだ。なぜあのとき自分は……と思わないこともない。ときにそれは、自責の念として自分に迫ってくる。とはいえ、事の大きさはリーに遠く及ばないかもしれないが。

救いは、ない。それは、僕らが生きているのが「現実」の世界だから

とにかく、この映画は過去に囚われたリーと父の死から目を背けようとするパトリックという対象的な二人が、それぞれの道を歩み始めるまでを綴っている。ただ、映画が終盤に進んでいくなかでハッピーな出来事も、想像を絶するような出来事も、特にない。ただ、忘れられない・目も当てられない現実がそばにいるだけ。その現実と向き合いながら、2時間17分が過ぎていく。


正直なところ、この映画をどう捉えるか、解釈するかについて語るべき言葉を持ち合わせていない。だから、この文章も尻切れトンボ的に、中途半端な形で終わることになる。が、むしろ何も答えを出さないことにこそ、意味があるのかもしれない。映画についての文章を書いているくせに何も語ってないことへの自己弁護になるが、彼らの人生はこれからも続いていくのだから、今は特に答えを見つけ出す必要はない。今はモヤモヤとした状態だけれど、いつか霧が晴れるかもしれないし、晴れないかもしれない。未来は見えないからこそ、答えを出すのは、もっと先でいい。だから、この文章はここで終りにする。

P.S.
この映画のラストシーンで、これからの進む先を決めたリーとパトリックが二人並んで釣り竿を海に垂らし、会話をしていた。それはまるで、映画冒頭の回想シーンで、ジョーと3人で仲良く船に乗っていたときのようだった。


大丈夫。ゆっくりでいい。立ち止まっても、後ろに下がってもいい。この時間は、君たちのためにあるのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?