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自分を罰し続ける人のかすかな救い。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』


いまさらだけど『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)を観た。
 

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とてもつらくて悲しい映画だ。胸ぐらをつかまれるほど美しく、じわじわしみる。

東海岸のじめじめした暗い冬を舞台に、深い悲嘆と、人の品性と強さと、ひっそりと目立たない優しさとつながりが、とても繊細なトーンで描かれている。

以下ネタバレ全開です。ちょっと前の映画だけど、とってもおすすめです。

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(ネタバレ!)

主人公リー(ケイシー・アフレック)は、ボストンでアパートの用務員という地味な仕事をし、半地下の牢屋のような部屋に住む、愛想もない暗い男である。しかもバーで目があった二人連れに「なぜオレを見ていた」とわけのわからない因縁をつけていきなり殴りかかったりする。

こんなイケメンがコミュ障のわけねえだろうと思っていると、やはり彼にはなにか真っ黒な過去があり、それが人生に影をおとしているのがだんだんとわかってくる。

ボストンから車で1時間半ほどの海辺の街マンチェスター・バイ・ザ・シーに住んでいた兄が心臓発作で急死してしまい、駆けつけて葬儀の手配を済ませたあと、リーは遺書を管理していた弁護士から衝撃的なことを聞かされる。死んだ兄が、息子、つまり一人残された高校生の甥の養育者として自分を指名しているというのだ。

「そんなこと聞いてないし絶対に出来ない」と言い張るリーに、弁護士も「こんな大事なことを兄さんは君に相談していなかったのか」と途方にくれる。

弁護士事務所で呆然としているリーの姿に回想シーンがかぶさり、5年か6年前の恐ろしい記憶が静かに明かされる。マンチェスターで幼い子ども3人と妻との明るい家庭を持っていたリーは、ある日、酔ったあげくの不注意から家を火事にしてしまう。雪の道を歩いて酒屋から戻ってくると家は火に包まれ、2階に寝ていた子どもたちは焼死する。このシーンでかかるのが、「アルビノーニのアダージョ」。

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下手をしたらコントになってしまうほどベタな「ザ・悲劇」の曲をフルに使って、監督ケネス・ロナーガンは淡々と、切々と、リーの、はらわたをずたずたにされるような悲劇を観客に見せていく。ごうごうと勢いよく燃え上がる自分の家を見、「わたしの子どもたちがあの中にいるの!」と叫びながら狂乱状態で救急車に押し込まれる妻を見、リーは酒屋から持って帰ったビールの紙袋を抱えたまま、泣くことも叫ぶこともできずに立ち尽くす。

警察署で調書を取られたあと解放されて自殺をはかろうとして取り押さえられたリーは、それから表情を一切なくして生きていく。妻とは離婚し、ボストンに移り、半地下の殺風景な部屋を選び、何の面白みもない仕事につき、人と交わりを断って生活をはじめる。彼は自分を罰しているのだ。(この表情をなくしたリーを演じるケイシー・アフレックがすごい。この役でアカデミー主演男優賞を獲得しているのも納得。)

リーは不注意で悲劇を招いた自分を許すことができず、自分がどれほど深く傷つき悲しんでいるかを直視することもできない。自分の愚かな間違いを許せないその底なしの怒りが、酔うと他人に向かい、バーでビールを飲んでは因縁をつけて人に殴りかかる。でもビールより強い酒や麻薬に溺れることすらも自分に許さないところに、リーの強靭な潔さがある。自分の悲しみに向き合うことからは全力で逃げながらも、なにかに溺れたり縋ったりすることをも、彼は徹底的に自分に禁じている。

こんなに強い人が実際にいるんだろうか。いたとしても、とてもレアだと思う。たいていの人はこれほど深い悲しみにとらわれたら、きっと何かに逃げてしまうはずだ。

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男の子は、ほんとうに多くの場合、自分のネガティブな感情とのつき合い方を学ぶ機会なしに大人になってしまうことが多いのだろうな、と、この映画を見てつくづく思った。男はほんとうにつらいよね。

ひとに弱さを見せることを死ぬより嫌うプライドだけが、リーを支えている。修道士か戦士のように、リーは黙々と自分を罰し続ける。それは一種の美学といえなくもないけれど、満身創痍の、危うい美学。なにかひとつネジが外れたらあっという間に分解してしまいそうだ。

もちろん、リーは神との絆も持ちあわせていない。これが18世紀だったら、彼は周りのすべての人と同じようにコミュニティの教会に属し、神父か牧師の教えにしたがい、贖罪と癒やしの祈りを捧げ続けたことだろう。それに心から納得していてもいなくても、癒やしと答えは教会を通して公式に用意されていた。でも21世紀のリーは、自分の行いをただただ巨大な暗黒の罪として抱え、そんな沼に入って行く羽目になったいきさつを不条理と感じ、自分と世界への強烈な怒りを抱きながら無力でいるしかない。

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地獄で自分を責め続けるリーを救えたかもしれない人が唯一いるとすれば、それは妻だったはずだ。でも彼女は「お前など地獄の火に焼かれてしまえ」と彼を呪い、彼のもとを去り、いまでは再婚してみごもっている。彼はそのことでまったく元妻を責めてはいないし、おそらく彼女の呪いの言葉を自分への罰としてそのまま受け取ったのだ。5年後に再会した元妻は、ひどいことを言って済まなかった、あなたを愛している、と涙を流す。でももう救いのチャンスは過ぎてしまっていて、リーには彼女とカジュアルに旧交をあたためることなどできるはずもない。そして新しく心を開いて恋人を作ることなど彼は自分に絶対に許さないし、そもそも誰にも、自分にも、心を開くすべを知らない。

16歳の甥パトリックも、アル中だった母に捨てられ、父は急死するという悲劇からくる悲しみに正面から向き合ってはいない。でも彼は友人たちや女の子たちとのつきあいを通してそれを紛らわせ、ちょっとおちゃらけて無責任ではありながら、生き生きと充実した人生を送ろうとしている。

最初は彼に取り付く島のない意地悪な態度をみせていたリーは、やがてパトリックが抱える悲嘆に気づき、彼の幸せを考えはじめる。この映画の救いは、自分をどうしても許すことのできないリーが、パトリックのために最善の力を尽くしはじめることだ。リーは、自分にはティーンエイジャーの養育などできないし、人と積極的にかかわることもできないと認め、パトリックが高校生活をこれまで通りに続けられるように、信頼できる友人夫婦に彼を託す。地に足のついたこの心優しい友人夫婦の存在は大きい。

前向きに人生を送ろうとする軟派高校生パトリックのエネルギーが、リーにも作用する。心を打ち明け合ったりはしないけれど、互いの存在に救いのようなものを感じ、距離を置きながら思いやりを持つ、その関係にほっとする。自分自身とは決して和解することができず、人との感情的なかかわりを一切拒絶するリーが、年若い甥という他者のために動くことを通して、ほんのすこし救われる。

もし、身近にリーのような人がいたら、いちばん親しいひとたちは首に縄をつけてでもカウンセリングに引っ張っていくべきだろうよと思う。きっと全力で拒否されるだろうけれど。消化されていない悲しみや苦しみは自分を深く傷つけ、かならず外に向かい、やがてほかの誰かを傷つける。

これほどの苦しみをかかえた人がもし目の前にいたとしたら、自分にいったい何ができるだろうか。もちろんリーほどストイックな人は少ないにしても、自分の悲しみや恐怖を直視できないほど傷ついている人が、この世にはあまりにも多い。


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