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続編ものの最高峰だと思った話。|2024,Week40

続編ものって、どう思いますか? 僕はあまり好きじゃありません。最初から2作目、3作目と予定されているのならともかく、大体は1作品目が人気になったから作ろうということで、初期には無かった要素とかスピンオフとか、いろんなものが乗っかかってきて、結局訳が分からない…ということが多いから。もちろん、きちんとシリーズものとして成立するものも多くあるから一概には言えないけれど、1作品目の人気にあやかった続編ものは、あまり好きじゃありません。

でも、この週末に『アメリカン・グラフィティ2(原題は「More American Graffiti」)』を観て、考え方が変わった。なるほど、こういう続編なら、面白いなと。今回はこの作品を取り上げます。


豊かで平和だった少年期ではなく、混乱の時代に巻き込まれていく青年期を描いた『アメリカン・グラフィティ2』

前作の『アメリカン・グラフィティ』は、『スター・ウォーズ』でお馴染みのジョージ・ルーカスが監督を務める、高校を卒業した若者たちが共に過ごす最後の一夜を描いた作品です。舞台は1962年のアメリカ・カリフォルニア州の田舎町。町を出て大学へ行こうか、それとも残って仲間と一緒に過ごそうか。若者の、いや10代特有の揺れ動く感情を、豊かで平和だった頃へのノスタルジックさで表現している。この映画は「興行的に最も成功した映画」とも言われているようで、低予算にも関わらず50年代のヒットソングやダイナーやモーテル、ドライブイン・シアターなどを多用した演出で、今なお人気を集めている名作ですよね。

こういう感じのドライブインに、ティーンエージャーたちがたむろする。僕らでいうところのコンビニみたいな?

しかし『アメリカン・グラフィティ2』には前作のような昔を懐かしむノスタルジックさは微塵も見られない、やけに大人びた作品に仕上がっている。舞台は1964年から67年までのアメリカは大晦日。ベトナム戦争、公民権運動、ヒッピーカルチャー、女性解放運動など世界中で混乱が巻き起こっていた時代。そんな荒れ狂う時代において前作では無垢で世間を知らない少年少女として描かれていた主人公たちも、今作ではそれぞれの置かれた場所において「大人」として振る舞うことを求められている。

ある者は兵士としてベトナム戦争へ、ある者は双子の親として、またある者は己の身一つで戦うレーシングカーの世界へ。彼らはもはや、前作のように大人の庇護下に置かれた「神聖な子ども」ではなく、行動の帰結に伴う責任を背負った「成熟した大人」として描かれています。


暗く厳しい、そしてやるせない現実。それでも。

僕は、この前作との対比があまりにも美しいと思った。いわゆる、普通の続編ものなら前作の雰囲気をガラッと変えることはせず、良い部分(今回なら古き良きアメリカ)の再生産…といったところに着地するのではないか。しかし、今作は前作のそういう部分をカットし、子どもだった主人公たちが見えていなかった「大人の現実」をまざまざと見せている。そもそも、1962年段階でも世の中はまあまあカオスだったはず。キューバ危機で世界が核戦争の寸前になったのも同年だし、公民権運動でもジェームズ・メレディスがミシシッピ大学への入学を黒人であることを理由に拒否されたのも同年。ベティ・フリーダンが『新しい女性の創造』を発表しウーマンリブ運動を呼び起こしたのも翌年の1963年だった。前作では子どもだった彼らは、そうした世の中のうねりを知ってか知らずか、あまり意識することは無かった。

しかし、今作ではそんな彼らも一人の大人として人生を歩み始めている。もはや、そうした世の中のダイナミズムを「知らない」では済まされない年齢なのだ。とはいえ、大人になったといってもまだ20代前半。そう簡単に大人になりきれるわけもなく。今作では、そうした青年期の苦悩や葛藤が描かれている。

ベトナムで上官にこき使われ、誰と戦っているかもわからない。国内では反戦運動が過激化しカオス状態。女性の社会進出とはいいつつ、双子の子育てをどうするのかという葛藤。理想はあるが、現実は厳しい『アメリカン・グラフィティ2』は、そうした少年から青年にかけての過渡期を、甘く夢あふれるノスタルジーとしてではなく、暗く厳しい、そしてやるせない現実を描き出している。でも、だからといってニヒリズムに陥るでもなく、それぞれがそれぞれのやり方で、前を向いて歩こうとする。

Should auld acquaintance be forgot, And never brought to mind?(古き友は忘れられゆくものなのだろうか)
Should auld acuaintance be forgot And auld lang syne!(古き思い出も消えてゆくのだろうか)
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne,(友よ、この古き、良き思い出のために)
We’ll tak a cup’o kindness yet, for auld lang syne.(この一杯を飲み干そうではないか)

Auld lang syne


そういう季節?

作中の最後、主人公それぞれが自分の場所で「蛍の光(Auld lang syne)」を歌うシーンがあった。あるものは街角で、あるものはベトナムの山奥で、あるものはバンで、あるものは運転するラジオに耳を傾ける。目に見える現実は苦しいだろうけれど、それでも新しい年はきっと良くなるだろうと。英語圏の大晦日の定番ソングを歌うシーン。僕はその姿があまりにも美しいと思いました。だからこそ、ラストシーンで語られるそれぞれの後半生が、ひときわ輝くのだろうと思う。

僕はわりとこういう作品を好んでエッセイに取り上げているような気がする。先週は『影との戦い ゲド戦記1』(これもシリーズものでしたね)、8月はチャールズ・ブコウスキーの『勝手に生きろ!』。もっとさかのぼれば『Hors normes(邦題:スペシャルズ!政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話)』なんてのも。僕自身もそういう季節なのかもしれないですね。


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