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勝手に生きろ!|2024,Week33.

というタイトルの小説がある。著者はチャールズ・ブコウスキー。正直、この人の本は今までに読んだことも名前を聞いたことも無かった。けれど、電車を待つ間にふらりと立ち寄った駅ナカの本屋でこの本を見つけ、手にとって購入してしまった。あまりにも挑戦的なタイトルだったので。


「勝手に生きろ!」

この言葉はブコウスキーが僕らに投げかけているのか、それとも自分自身への呼びかけなのかは、よくわからない。けれど、実際にこの本を読んでみると主人公・H・チナスキーのあまりにも自分勝手に職を、人を変える姿に驚かされるだろう。

彼はカリフォルニアのカレッジに2年在籍した後でアメリカ各地を転々としながら、流浪の旅をする。いや、旅と言うのはいささか出来すぎた表現かもしれない。彼は特にこれといった理由もないままに仕事に就き、数日か数週間働いたあとでそこを辞め、そしてまた別の職場に移っていく。自分探しをしているわけでも、何か明確な反抗精神があるわけでない。ただ、なんとなく気に食わないという理由で、仕事を辞め、そしてまた次の職場へ流れ着いていく。

太った男はおれをベルジャーのところへ連れて行った。ベルジャーはいつものように疲れた顔をしていた。「これは学生のやる仕事なんですよ。ベルジャーさん。こいつには合ってないみたいだ。やっぱりこの仕事は学生じゃないとね」 「わかった」ベルジャーは言った。太った男はペタペタと歩いて行った。 「何日働いた?」ベルジャーが尋ねた。 「五日」 「オーケー。これを会計に持ってけ」 「ベルジャーさん。聞いて下さいよ。あいつ、ほんと、どうしようもなくムカつく野郎
なんですから」 ベルジャーは溜息をついた。「ああ、わたしがそれを知らないとでも?」 おれは会計に向かった。

『勝手に生きろ!』P.18

こんな調子で、チナスキーはいくつもの職を転々とする。鉄道貨車の操車場、配送会社の係員、印刷会社のアシスタント、犬のビスケット工場などなど。数えたことは無いけれど、おそらく20くらいの職を転々としていると思う。しかも、半年か1年かそこらの期間で。僕自身は、今の会社に勤めてからもう丸3年が経ち、今年の4月で4年目を迎えている。前の会社は丸2年勤めていた。くらべるまでもないが、いかにチナスキーが流浪の生活をしているかがよくわかる。


飾らない。それだけに、真実味がある。

まさにタイトル通りチナスキーは「勝手に生きている」わけだが、それだけにこの本は、いわゆるきれいで丁寧な暮らしは無いものの、現実世界の残酷な、それでいて真実味のある生きた実感を僕らに教えてくれる。例えば、職探しにうんざりして安ホテルのベッドのなかで飲んでいるとき。チナスキーは言う。

要するに、おれは人生にうんざりしていた。ただ食べたり、寝たり、服を買うためにしなくちゃならないことそのものにだ。だからおれは、ベッドのなかで飲んでいた。飲んだところで世界がなくなるわけじゃない。でも、世界のほうもこっちの首を絞めたりはしない。

『勝手に生きろ!』P.80

確かに、何もかもが嫌になってヤケになってるとき、妙に視界が冴え渡ってくる瞬間がある。「世界のほうもこっちの首を絞めたりしない」という冷静なツッコミは、そんなふうに僕らを現実に引き戻してくれるような鋭さをもっていると思う。他にもクリエイティビティを発揮しようと、1日に5セントのキャンディ2本で過ごそうとしたときにはこうも言いのける。

空腹がおれの芸術を高めることはなかった。かえって邪魔になっただけだ。人間の魂の根本は胃にある。ポーターハウス・ステーキを食べ、ウィスキーを1パイント飲んだあとのほうが、5セントの棒キャンディを舐めてるよりよほど巧く書ける。飢えた芸術家なんて神話はでっちあげだ。

『勝手に生きろ!』P.76

これには僕らもウンウンと頷かざるを得ない。空腹のときは腹を満たすことしか考えられなくなる。そんなときに、クリエイティビティだなんだとは、おそらくほとんどの人が言えないだろう。だって空腹なのだから。


腹が減っては戦はできぬ

「勝手に生きろ!」は、徹底して労働者の現実を描いている。働きたくないけれど、金は欲しい。働くなら自分を生かした仕事がしたい。読んでいてわかるわかると思わされる場面がいくつも登場してくる。いわゆる労働者文学という括りで見れば、僕はアラン・シリトーの『土曜の夜と日曜の朝』や、少しそれるかもしれないがヘミングウェイの『老人と海』にも匹敵すると思う。前者の「明日は仕事だ。次の週末まで汗水ながしておれは懸命に働くんだ。人生はきびしい、へこたれるもんか」、後者の「「闘ったらいいじゃないか」とかれははっきりいった、「おれは死ぬまで闘ってやるぞ」」のように。決して、インテリのホワイトカラーには書けない、生きた現実の戦いを、この本は書き記していると思う


いよいよ28歳。まだまだ28歳?

翻って僕といえば、この8月で28歳になった。去年は27歳を迎えるあたりのタイミングでnoteにエッセイを書いたんだけど、今改めて読んでみても成長したのか、してないのか分からないですね。

28歳になったからといって、これといって何かを変える必要も考えも無いんだけれど、ただ1つ言えるのは、「正直でいよう」ということ。チナスキーのようにとまではいかないけれど、心にも無いことを言わない・書かない。安請け合いしない。思ったことは言う。まさに「勝手に生きろ!」。

人からどう見えるかは分からないけれど、僕は案外気にしいのところがあるから、そういう自分に対する「嘘」はつまらないから止めにしようと思う。特に何かがあったわけではないけれど。28歳も引き続き。

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