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閉鎖的な社会について

先日、いろいろ思うことがあって、Facebookにこんなことを書いた。

「教員の世界は社会の非常識」
この言葉は教員だけではなく、どの世界でもいえることだなと最近、つくづく思う。例えば、「バレーボール村の常識は社会の非常識」とか…。
狭い村(社会)、しかも、同じような価値観を持った村人だけで物事を決めるようでは組織の進化や発展はないなと。
村人以外を排除するのではなく、ほかの村に住んでいる人たちを招き入れ、化学反応を起こすことが大事だと思う。
そして、化学反応の結果を短期的なスパンではなく長期的なスパンで見る。
(私を例にすると、いまはまだジグソーパズルのピース探しの日々。でもピースが集まればパズルは完成する)
昨日、ハイビスカスを発見。
昔は、大分でハイビスカスを見ることなんてなかった。
時代は着実に進化している。
私たちも「過去、こうしてたからこうすべき」という硬直した考えを捨て去って柔軟に生きるべし。


スポーツ庁にいた時(正確にはスポーツ庁ができた時)、厚生労働省から来た課長がよく「スポーツ村の人たちだけで考えてもダメだよ」と言っていた。

いろんなことがあるたびに、私はこのことばを思い出す。

スポーツ庁の職員といっても、いろんな人がいます。
文科省時代は、基本、県教委や市町村からの研修生や、私のような割愛扱いの人…プラス、スポーツ庁になってからは民間企業の方も入ってきて、雰囲気が一気に変わりました。

たまたま、私の所属していた課はキャリアラインの方もスポーツ大好きな人たちで、いわゆるスポーツ村の人たちが多かった。
ちなみに、他の課にはスポーツをしなさそうな人がいたので、その人にいろいろ聞いてみようかとか言ってました 笑



大分に戻ってきて、すぐにいろんな違和感が…
例えば、「体育」の世界の閉鎖的な考え、俺たちもやってきたからお前もやれみたいな考え、忖度、男尊女卑…

私は退職の道を選んだ。

行政や教員の世界から飛び出して思ったことは、閉鎖的なのは、教員の世界のみではないってこと。

バレーボール村もしかり、サッカー村もしかり…

SDGsのとあるウェビナーでも「日本はずっと鎖国をしたまま」との話があったけど、それって、国レベルの話のみではなく、身近なところでもそんな感じだなと。

違う人を排除することで村を守ろうとしているのかな。
特に男性にこの要素を強く感じる。
(男性、女性の視点で話をしたくはないけど)

以前、寛容性についてnoteに書いたけど、自分とは違う、みんなとは違う、そんな人たちを自然に受け入れる社会になって欲しいと思う。

そうすれば、私もそうですが、多くの人にとって、もっと生きやすい社会になるはず…。


私のルーツは国東半島。
神仏習合。


小さい頃の遊び場の神社 笑

母親の実家にあるケベスのレプリカ

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こういうまちに一度、行ってみたい。