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いまさらながらの自己紹介

気づいたら22記事目。

皆さんのnoteを見ていると自己紹介記事をプロフィールに固定しているので、私も遅ればせながら書くことに。


1 小・中・高校時代

早生まれの私は、4月生まれの同級生とはほぼ1年違い。
何をやっても同級生には追いつかず、運動会も4年生ぐらいまで1番になったことはなかったかと。

小さい頃の記憶はほとんどない(^^;
残っている記憶は、1年生か2年生の時に母親から掛け算のようなことを教えてもらっていたので、それを授業中、つぶやいたら、みんなの前で先生に褒められたぐらい。
運動は全くみんなに追いつけなかった私。おそらくこのできごとをきっかけに勉強好きになった 笑
できない子にとって褒められることは大事なこと、身をもって体験^^

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中学に入学後、バレーボール部に入部。
バレーボールを始めたきっかけは、母親がやっていたから 笑
(ママさんバレーによくついて行っていた)

中学1年生の時は、154センチぐらいだったのが、バレーを始めてから、すくすく育ち、3年生の時には167センチぐらいに。
バレーは楽しかったけど、高校ではしないつもりだった。
理由としては、
・県大会出場をかけた大会で負けたこと。
・市内には高校が一校しかなく、普通科に行くと部活との両立は厳しいと聞いていたから。

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高校時代、将来の夢はいろいろ変わりました。
最初は、心理学からスタートし、その後は、薬剤師になりたいと。
家庭的に4年制は国公立大学のみという条件だったので、高校2年の秋ぐらいに成績が伸び悩み、薬学部は諦め、次は、理学療法士に…。

バレーは、同じクラスになったYさん(同じ中学のバレー部だった)がバレー部に入ったので、私も入ることに。
当時、女子バレー部は全員、商業科。
私たち2人が初の普通科部員ということで、強烈だった3年生からは嫌みを言われたことも(-_-;)

扇城高校(現:東九州龍谷高校)に負け、最後の県大会が終わったあと、私が筑波大学の受験を決めるできごとが。
当時、大分高校の監督をしていた前田先生が、日立茂原のコーチの方を連れて私のところ(高校)に。実業団でバレーをやらないかと。

いろいろ考えた結果、大学でバレーを続けて、将来は指導者(高校の教員)になりたいと思い、従兄(ハンドボール)が筑波大学を卒業していたこともあり、筑波大学を第一志望に。

ところが、センター試験で大失敗。
学校からは筑波大学の受験を猛反対されたけど、「受ける!」と言い張り、なんとか合格しました。センター試験は失敗したけど、なぜか落ちる気はしなかったのです。

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2 大学時代

バレー部に入り、4年間、バレー一色。
平日の練習は授業後の17時から21時、遅いときは22時過ぎたりとか…。
そんな生活だったので、バイトをするのもなかなか厳しかったけど、一つ上の先輩から譲ってもらった家庭教師のアルバイトをちょっとだけ。食事付きでなかなかいいアルバイトだった。

筑波大学は環境がいい!(田舎だけど)
体育専門学群の推薦組は、本当にすごい人ばかり。一般組もすごい人が多くて、いままでになかった刺激的な日々。テレビに出ていた人と次の日にすれ違ったりとか…。
スポーツ界には筑波大学出身の方が多く、いろんな方につながれるのは有難い。
ちなみに、研究室はかなり迷いスポーツ栄養学を専攻。

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3 教員時代

大学卒業後は、大分県に戻り、教員採用試験にチャレンジ。
国体で点がとれる選手が優先的に採用されたりとココロ折れることもあったけど何度か受験し、なんとか採用に。
正採用になるまでは部活の指導やチーム作りが一番楽しかったけど、クラス担任をし始めてからは、担任ってこんなに楽しいんだと。
私は担任をした学年すべて、1年から3年まで持ち上がるという貴重な体験ができ、それぞれの学校で充実した日々を過ごすことができた。感謝感謝。
教員時代は、生徒と日々バトルで、怒ってばかりだった 笑

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4 県教育庁(インターハイ担当)時代

2010年4月、晴天の霹靂①
異動で学校現場を離れることに。
県教育庁で何をするのか聞いたところ、2013年に北部九州でインターハイが開催されるから、その準備担当とのこと。
最初は、学校現場に戻りたいと思っていたけど、人が増え、仕事が細分化されると担当業務(広報)が面白くなり、終わってみれば貴重な体験をすることができたと。
ブロック開催3回目だったので、1回目の青森県、2回目の新潟県の皆さんには本当にお世話になりました。

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5 文部科学省・スポーツ庁時代

2014年4月、晴天の霹靂②
インターハイが終わり、学校現場に戻りたいと思っていたけど、いろいろあって文部科学省に3年間行くことに。この話が舞い込んできたとき、正直、「私には無理、務まらない」と思い、何度も断りを。

私は県教育庁にいたとはいえ、インターハイの担当だったので、行政の仕事をする上での基礎知識がなく、仕事の仕方も分からず、最初は、苦労しました。なかには、学校現場から直接、文科省に来た、超かわいそうな先生もいたので、「自分はまだましだ…」と言い聞かせて。
1年目は担当業務がものすごく多く、平日は家に帰り着くのが25時近くになったり…。正直、病みそうな日々だった 笑

スポーツ庁になってからは、いろんな会議が始まり、刺激がいっぱいで、ちょっとだけ仕事が楽しくなった(大変さは変わらず)。

3年目、「来年、大分に戻るか東京に残るか」は少し迷ったけど、大分に戻ることに。

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6 県教育庁時代

2017年4月。
大分に戻ってきて、あまりにも国と地方の状況が違いすぎて戸惑ってばかりの日々。いろんなことが引き金となり、戻って1~2か月後ぐらいには、ここでは生きていけない(メンタルが病みそう)と思い、転職を考えるように。

7 民間企業

2017年10月。
スポーツを通じたまちづくりに取り組みたい企業が、なんと大分県内で見つかり、私は民間企業に入社。
最初のミッションはスポーツを通じたまちづくりに取り組むためのツールとして、クラブを創設すること。

クラブの話はこちらから。

クラブ(ジェイリースFC)を立ち上げ、スポーツを通じたまちづくりやスポーツSDGs、若干ながら選手のキャリア教育等に取り組むことができ、大変ながらも充実した日々を過ごしました。

2022年5月中旬をもって退職。
もともと「スポーツを通じたまちづくり」に取り組むために入社したので、担当から外れることになったら辞めよう、と以前から考えていた。
4年半、貴重な体験をすることができました。ありがとうございました。
これからも「スポーツに関わりたい」そう思っています。

8 充電期間

昨年、知り合いの方に教えていただいた「社会教育士」。
仕事を辞めたこの機会を活かして、熊本大学で社会教育主事講習を受講することに。

社会教育主事講習を受講するまで時間があったので、それまでの期間、何かできるアルバイト等はないかと思っていたところ、参議院選挙がこの間にばっちり入っていて、大学の先輩のお手伝いをすることに。
知らないことがたくさんあって、いい社会勉強になった。

7月中旬から熊本へ…
講習の詳細はnoteをご覧ください。

社会教育主事講習のレポート等も8月中旬には目途がつき、次の仕事を考えることに。
引っ越しも視野に入れたけど、3月までは大分に残ろうと思い、半年間、何をするかを考えた際、小学生に関わってみたいと思い始めるように。
小学校の免許は持っていないので補助教員等の求人を探してみたけど、フルタイムはなし。気になったのが学童保育の求人。学童保育の世界も覗いてみたいと思っていたので、学童保育で働かせてもらうことに。

9 再び教員

県内でスポーツ関係の仕事に就くって、求人もないし、厳しい。
県外に行くことも考えたけど、なんだかしっくりこない。
来年度、どうしようかと思っていたところ、甥っ子が通学している支援学校の事務(病休代替)に求人が。甥っ子の様子を見ながら、支援学校の様子も見てみたいと思い、応募してみたら、いろいろあって臨時講師として勤めることに。1年間、がんばってみます。

つづく



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