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「走る」ということについて。

7年ぶりのマラソン大会。

3月20日、7年ぶりにマラソン大会に出場した。表参道ウィメンズラン、代々木、渋谷、表参道、アップダウンの激しい10キロのコース。ハードなコースだけれど、タワレコや表参道ヒルズの前の車道や、明治神宮の敷地の中を突っ切って走ることができるっていうのはランナー心をくすぐる。今年が第12回大会となるが、去年と一昨年はコロナで会場開催できておらず、今回の開催は関係者にとってきっと感慨深いものであっただろう。前から走りたいなーと思ってはいたものの人気の大会で気づくと申し込みが終わっていたりしたので、今回ラン友が誘ってくれた時には迷うことなく参加を決めた。

マラソン大会に出場=走るが得意、ではない。

マラソン大会に出場する=走ることが得意な人。と思われるかもしれないけれど、決してそうではない。私は、どちらかというと得意ではない方だ。小学校時代にリレーの選手になるようなタイプではなく、学校のマラソン大会も苦痛でしかなかった。球技などのスポーツは好きでも走るだけってのはパス、そんな子ども時代だった。だから、私は決して走ることが得意だからマラソン大会に出場している訳ではない。

そんな私が、なぜマラソンに興味を持ったか。

きっかけは30歳を目前にした時だった。30歳の記念に何か”やり切った”と思えるような事がしたくなったのだ。それが、何故かホノルルマラソンだった。そこに行き着いた、そういう意味では心のどこかで本当は走ることに憧れはあったのかもしれない。ウェアを揃えてジムに通い、国内のマラソン大会に参加し、徐々に走れる距離を伸ばし、フルマラソン完走という目標に向けて1年間かけてひたすら努力をした。

ホノルルを完走した時の感情について。

それだけ努力したから、ホノルルの42.195k完走した時は本当に泣いた。女優さんのキラリんと光る涙とかではなく、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになる方だ。その時の感情がどいういうところからやってきたのか・・・言語化するってことをしておけばよかったのだがしておらず、でも当時の自分の中では「達成感」という言葉で納得していたように思う。”やり切った達成感”を得るためにマラソン大会に出場して、それが叶った喜びの涙。そんな感情だったのかな、と思っていた。でも、今回表参道を走って、改めて、なぜ走るのか?について考えてみると、達成感という言葉だけではない、違う感情があることに気づいた。

それは、「感謝」だった。

心から、ただそこにそうしていられることに感動するのだ。なぜ、感謝の気持ちが湧いてくるのか・・・。それは、もう本当に苦しいからだ。マラソン大会の最後の方が。普段、生活の中では味わうことのない極限状態になってくる。どうにか足を前に運び続ける。ひたすら前に進む、それだけになる。よく座禅で無になるとかいうが私は座禅で無になるのは無理で、このマラソン大会の終盤の極限状態こそ、私にとっての無になれる時だと思う。
色んなものが頭から無くなり心だけが残った時に、給水の水が飲めるということがありがたく、沿道からの応援が心に沁みて、一緒にゴールを目指す仲間がいることに歓喜し、大げさな言葉になってしまうけれど、私は生かされているんだという感覚に包まれる。初めてのフルマラソン完走の、あのホノルルでの涙はそんな感情も混ざっていた、ように思う。

つまり、「走る」ということは。

だから、私にとって「走る」ということは、健康のため。とか、なんかカッコいいから。っていうのももちろんありつつ、自分を追い込んでそこから見える景色を味わいたいから。というのも大きい。あ、走った後のビールがめちゃうまいから。っていうのもかなりある。それも加えておかねば。笑笑

それらも、まるっと、全部含めて「感謝」なのだ。
だから、ゆるくとも、なんとなく「走る」ってことに向き合っていこう。表参道を走り終えて、今、改めてそう思っている。

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