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平安時代人の風景への世界、末の松山

 昭和時代、観光ブームが盛んになるにつれ、地方で観光名所を創作する創意工夫の動きが盛んになりました。その観光名所を創作する創意工夫では、地域が自慢する風景に古典作品を結びつけるものも多く、その中でも小説や紀行文からの一節よりも古典の和歌に地域の風景・風土を詠うものを求めています。名所に置く碑や案内板としては、和歌や俳句の方が文字数的に好ましかったようです。
 さて、私が提供する記事は、ご存知のようにまったくの与太話です。さらに増して、今回のものは将来のネタとしての備忘録のようなものですので、海のものとも山のものとも不明なものです。酔加減なものですので、そのようなものとしてお楽しみ下さい。このような背景ですので、特定の地域に対する誹謗中傷でも当てこすりではありません。ただ、デスりみたいな話ですが、紹介するものは一定の根拠を持った与太話です。
 ここで、古今和歌集に「末の松山」を詠う歌が二首あります。それが次の歌です。和歌表記は鎌倉時代の写本 伊達本「古今和歌集」で、「藤原定家と平安朝古典籍の書写校勘に関する総合データベース」---伊達本「古今和歌集」本文の基礎的研究---と云うものからです。紹介するように同じ歌ですが平安時代から鎌倉時代の表記・解釈と現代の表記・解釈は同じではありません。特に「末の松山」の「すゑ」と「末」とで解釈の幅が大きく違います。
 
古今和歌集 歌番326
詞書 寛平御時幾左以乃宮乃哥合乃宇多 布知八良乃於幾可世
読下 寛平御時きさいの宮の哥合のうた ふちはらのおきかせ(藤原興風)
和歌 浦知可久布利久留雪者白浪乃末乃松山己寸可止曽見留
読下 浦ちかくふりくる雪は白浪の末の松山こすかとそ見る
通釈 浦近く降り来る雪は白浪の末の松山越すかとぞ見る
鑑賞 浜近く降りくる雪の景色は、あの「末の松山」、松が生える山の頂の松を越した白波のように、松に降り積もっている。
 
古今和歌集 歌番1093
部立 東歌 陸奥国歌
和歌 君遠々幾天安多之心遠和可毛多八寸恵乃松山浪毛己衣奈武
読下 君をゝきてあたし心をわかもたはすゑの松山浪もこえなむ
通釈 君を置きてあだし心を我が持たば末の松山浪も越えなむ
鑑賞 貴方をさしおいて、自分が他の人に思いをかけるようなことあれば、その結果、松が生えるあの山の頂を波が越えるでしょう
 
 標準的な歌の解釈では東歌 陸奥国の歌とされる歌番1093の歌が先に詠われ、藤原興風はこの歌を踏まえて歌番326の歌を詠ったことになっています。和歌の世界ではこの歌番1093の歌は評判が良かったようで、興風だけでなく、すぐ次の世代となる清原元輔も歌番1093の歌と歌番326の歌とを踏まえて次のような歌(俊成三十六人歌合より)を詠っています。この歌は後に小倉百人一首にも載る歌です。
 
和歌 知幾利幾奈加多見尓曽天遠志本利川々寸恵乃万川也万奈見己佐之登波
読下 ちきりきなかたみにそてをしほりつつすゑのまつやまなみこさしとは
通釈 契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは
解釈 約束したのに、お互いに泣いて涙に濡れた着物の袖を絞りながら、その結果、松が生える山の頂を波が越すことなんてあり得ないように、決して心変わりはしないはずなのに。
 
 現代のお国自慢では歌に詠われる「寸恵乃松山」を現在の宮城県多賀城市八幡地区周辺の地名を想定します。ただし、歌番1093の歌での「すゑの松山」は歌意に示すように、「結果として」の「すゑ」に、「松の生える山の先っぽ、頂き」の「すゑ」を意味し、特定の地名を詠ってはいません。つまり、この歌が源氏物語の明石の巻の原形と考えられているように古今和歌集での紀貫之や在原業平のものが源融の屋敷の塩焼き風情を須磨・明石の浜と見立てて詠ったものですから、それと同じです。紀貫之たちのものは、河原左大臣源融の京都市内にあった彼の邸宅(六条河原院)で、源融が難波から海水を汲んで来させて、庭で塩焼きの風情を作った、その風景を須磨・明石の浜と見立てた比喩歌です。ただ、その古今和歌集から時代が下るにつれ、いつしか、東北に塩竈と言う地名があり、塩焼き釜を指す和歌言葉の「塩釜」が実際の陸奥の地名の「塩竈」として解釈され、さらに陸奥に塩竈の歌が詠われた風景となる特定の場所があるはずだと変化します。それが今日の塩竈神社の岡から見る風景とします。そこに、先の東歌 陸奥国歌である歌番1093がかぶさってきて、特定の場所を詠ったものとなりました。ここに名所旧跡や名物神事が出来上がったわけです。
 
和歌 君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな(紀貫之)
和歌 塩がまにいつか来にけん朝なぎにつりする船はここによらなん(在原業平)
 
 ある御国自慢では、最初に紀貫之たちが歌に詠う「塩釜」とは、難波の浜の製塩作業の塩焼き釜ではなく、地名のことだと考え「塩竈」と比定します。それを下に歌番326の歌は同じ風景を詠い、さらに歌番326の歌は歌番1093の歌を引用するものとします。そして、歌番1093の歌の「寸恵乃松山」を「末の松山」と直し、歌番1093の歌は陸奥国歌ですから、「塩竈」の地で「末の松山」を詠うものであるとして、現在の地名を探ると、塩竈神社の位置からして多賀城市八幡地区周辺の地名であろうと考えます。他方、和歌に詠う古語「寸恵」は「先端、末端」だけでなく、「最後には」とか「果てには」のような意味合いもあり、「貴女に対して偽りの恋心を私が持っていたら、最後の最後には、松が生える山の頂をも浪が越えるでしょう。でも、そんな大波はありませんよね」と云う歌意になりますから、掛詞としても特定の地名「末」を示したものとするのは苦しいと思います。
 既に筑波大学の古今和歌集の研究報告などで示すように古今和歌集の原歌表記は、本来、音漢字だけの一字一音表記による万葉仮名書です。紹介しましたように「寸恵」と云う言葉に対する鑑賞が出来る可能性があるため、藤原定家も古今和歌集を原歌表記の一字一音万葉仮名書から読み易さを考慮した漢字交じり平仮名表記へと翻訳する段でも「寸恵」を「末」としなかったと考えます。小倉百人一首に載る清原元輔の歌も「寸恵」と表記しています。
 対して、歌番326の興風の歌での「白浪乃末乃松山己寸可止曽見留」は「白浪の浪飛沫が岸辺の松の生える山の頂を越して白く覆い隠すほどに」の意味合いですから、「末」は古語の先端・末端の意味合いでの用法です。これも地名ではありません。
 当然、清原元輔の歌は「偽りの恋心は浪が松の生える山の頂を越えることがないようにありえない」と云うものと「白浪の先端の浪飛沫が松の生える山の頂を越す」との二つの歌を引き合いに詠われていますが、「末の松山」と云う地名はどこにもありません。元輔の歌の末句「なみこさしとは」は取りようによっては、「なみこさじ」の「浪は越さない」でありますし「なみこさし」の「浪がやって来る=越す」でもあります。そこが清音掛詞での面白みなのでしょう。
 ここで話題を変えて、ある人が、東日本大地震での津波の状況を見て、普段の浪では松の生える山の頂を越えることは無いだろう。それでも和歌に浪が松の生える山の頂を越すと詠うのならば、これは巨大な津波の情景を詠ったものであろう。歌人たちの活躍した時代を考えると、きっと、貞観地震が陸奥国を襲った時のもので、地震・津波災害を詠った貴重な和歌群だとして、そのように鑑賞するべきだと提案する人がいます。
 しかしながら、歌の出どころは京都の河原左大臣源融の六条河原院にあった庭の風景なのです。源融が難波から海水を京都の私邸まで運ばせ、万葉集で詠う須磨・明石の海岸の塩焼きの風景を再現して遊んだ、非常に贅沢な風流を歌にしたものです。後に、この伝承が源氏物語の明石へとつながるものであって、陸奥とは全くに関係性が無いのです。つまり、歌番1093の歌は貞観大地震やそのとき起きた津波を詠った歌ではないのです。
 
集歌413
原文 須麻乃海人之 塩焼衣乃 藤服 間遠之有者 未著穢
訓読 須磨(すま)の海人(あま)し塩焼き衣(ころも)の葛服(ふぢころも)間(ま)遠(とほ)にしあればいまだ着なれず
私訳 須磨の海で海人が塩を焼く時に着る衣は葛の繊維で作った粗末な服、その目が粗いように、貴女との仲が間遠いので、未だに貴女に慣れ親しんでいない。
 
集歌947
原文 為間乃海人之 塩焼衣乃 奈礼名者香 一日母君乎 忘而将念
訓読 須磨(すま)の海女(あま)し塩焼く衣(ころも)の馴(な)れなばか一日(ひとひ)も君を忘(わす)るに念(も)はむ
私訳 須磨の海女が塩焼くときに着ている衣が萎えているように、その言葉のように貴女と体を馴れ親しまらせたら、一日だけでも貴女を忘れるなどとは思いません。
 
 伝統的な和歌での浪の大きさを示す表現としては最大でも磯越す浪です。これを松の生える山の頂を越すと云う大げさで印象的な言葉を使ったことに新しさがあります。この思いもかけない比喩の大きさの面白みからすれば、お国自慢の地域として、小松が生える磯の景色としてはいけないのです。一般名称での大きな松の木が生える山の頂なのです。この感覚が古今和歌集 歌番1093の歌を秀歌として、多数の類型・派生歌が生まれた背景なのです。
 もう少し、
 今度は万葉集の歌に遊びます。
 
和銅五年壬子夏四月、遣長田王于伊勢齊宮時、山邊御井謌
標訓 和銅五年(712)壬子の夏四月、長田(おさだの)王(おほきみ)を伊勢の齊宮(いつきのみや)に遣はしし時に、山邊の御井の謌
集歌81
原文 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓読 山し辺(へ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)どもあひ見つるかも
私訳 山の辺の御井を見たいと願っていたら思いもかけずも、神風の吹く伊勢の国へ赴く女性たち(長田王とその侍女たち)にお会いしました。
注意 原文の「伊勢處女」の「處女」には、親と共にその場所に居住する女性のような意味合いですから、「伊勢處女」とは伊勢の斎宮で主人に従う女達の意味になります。つまり、集歌81の歌は、一般の解釈とは違い、斎宮に仕える女性とそれを引率する長田王への餞別の歌です。
 
集歌82
原文 浦佐夫流 情佐麻弥之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
訓読 心(うら)さぶる情(こころ)さ益(ま)やし久方の天し時雨(しぐれ)の流らふ見れば
私訳 うら淋しい感情がどんどん募って来る。遥か彼方の天空に時雨の雨雲が流れているのを眺めると。
注意 原文の「情佐麻弥之」の「弥」は、一般に「祢」と変え「情(こころ)さ数多(まね)し」と訓みます。感情の捉え方が違います。
 
集歌83
原文 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
訓読 海(わた)し底(そこ)沖つ白波立田山いつか越えなむ妹しあたり見む
私訳 海の奥底、その沖に白波が立つ。その言葉のひびきではないが、その龍田山を何時かは越えて行こう。麗しい娘女の住むところを眺めるために。
右二首今案、不似御井所。若疑當時誦之古謌歟。
注訓 右の二首は今案(かむが)ふるに、御井の所に似ず。若(けだ)し疑ふらくに時に當りて誦(うた)ふる古き謌か。
 
 なぜ、この歌を紹介しましたかと云うと、集歌83の歌の句「海底 奥津白波 立田山」から天武天皇十三年(684)に起きた白鳳大地震と大津波を想像するお方がいらっしゃるためです。
 ここで集歌81から集歌83の歌三首を確認しますと、歌を詠った人物は五月の田植えシーズンに備えて何らかの神事に関係して奈良市の都祁分水神社の脇にある山邊の御井を尋ねていた時、ちょうど、倭の都祁路から伊賀を抜けて伊勢斎宮へと赴かれる斎宮に仕える采女たちとそれを引率する長田王に出会ったと思われます。
 飛鳥・奈良時代は、御幸巡行の記事に示すように伊勢国への行き来には大和の檪本から都祁を越えて伊賀へ抜ける陸路の都祁山道を使い、伊賀から伊勢に行く最短ルートがあり、一方、旧来の奈良から飛鳥の初瀬まで南下してから名張を経ての、後の伊勢街道を使い伊勢に行く経路、さらに海路の紀伊・熊野経由の三通りがあります。
 歌からしますと長田王一行は倭の都祁山道から伊賀を抜けて伊勢へと赴かれたと考えます。一方、歌三首を詠った人物は、もし、機会があったら難波大津から大船で熊野灘を越えて伊勢へと行きましょうと詠います。また、万葉時代の「海底 奥津」は海底のイメージではなく、沖合い遥か彼方のイメージです。岸辺が上辺なら沖合いが奥辺と云う表現方法です。そこからのある種、掛詞遊びでの「底」であり「奥」ですし、白波が立つと立田山です。つまり、「海底 奥津白波 立田山」は、海底を現すほどの大津波が立ったわけではないのです。
 万葉集は大和言葉で詠われ、それを漢語と万葉仮名と云う表音漢字だけで表記された歌です。この原則を守りませんと、いつしか、古代朝鮮語で歌われた詩歌集と云う説に繋がります。そして、万葉集には詩体歌、非詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌の大きく四つの表現区分があり、後年の古今和歌集などはこの一字一音万葉仮名歌の表記方法を採用し、原則として歌中に一切の漢字として意味を持つ訓漢字を排除したものです。そのため、平安時代中期まではそれぞれの時代の貴族たちは万葉集から古今和歌集を経て後撰和歌集などの歌は同様な表記の歌として鑑賞出来ます。
 ところが、平安最末期の動乱以降、貴族文化が失わる時代になると、その時代の貴族階級に所属する人々の教養水準に合わせて一字一音万葉仮名歌の表記方法で詠われた歌をその時代の人々に判り易くするために漢字交じり平仮名表記に翻訳するようになります。例としましては最初に紹介した古今和歌集の「和歌」と云うものが一字一音万葉仮名歌で、漢字交じり平仮名表記に翻訳したものが「読下」です。一字一音万葉仮名歌は掛詞技法を最大限に活用するものですが、漢字交じり平仮名表記に翻訳した時、翻訳者の教養水準で掛詞技法が失われている危険性があります。このために平安最末期以降に行われた翻訳からの漢字交じり平仮名表記の歌が、原歌の世界を確実に示しているかと云いますと、難しいところです。なお、この古典の和歌を漢字交じり平仮名表記に翻訳することを否定しますと、歌の解釈の幅が大きく広がり一つの解釈へと収束しない可能性があり、これは特定の解釈だけを強制する和歌家元制や学校教育と馴染まないものになります。
 そのために、原歌からの解釈と翻訳された漢字交じり平仮名表記の歌からの解釈に相違が生じることもあります。つまり、先の「寸恵乃松山浪毛己衣奈武」と「末の松山浪も越えなむ」ですし、柿本人麻呂が詠う有名な「あかしのうら」と「明石の浦」の相違です。私はこのような相違を前提として、校本万葉集やその定訓とされる漢字交じり平仮名表記の歌をテキストとせず、西本願寺本万葉集の原歌から万葉集を鑑賞し、与太話を行っています。また、同じように古今和歌集でも原歌の一字一音万葉仮名歌の表記スタイルを想定して解釈します。その分、万葉集、古今和歌集や御饌和歌集を標準的に扱われている漢字交じり平仮名表記の歌から原文表記に戻すと言う無駄な努力を行います。
 もうちょっと、面白可笑しな話のついでに、標準的に扱われている漢字交じり平仮名表記の歌から原文表記に戻すと言う無駄な努力から、平安貴族たちが万葉集の歌の景色と現地の風景をどのように見ていたかを兵庫県明石市にある柿本神社創建にもかかわる有名な歌から取り上げて紹介をします。
 紹介する作品は、人によっては柿本人麻呂の作品ではなく、古今和歌集の標題に従い無名人の作品としますが、平安時代からの伝統と伝承では柿本人麻呂の作品です。ただ、その紹介する歌が初めて世に知られたのは古今和歌集羇旅歌の部立に載せられてからですし、作者比定については平安時代中期以降になって柿本人麻呂の代表作品とされた経緯があります。この歴史があるがため、今日でも作歌者は柿本人麻呂ではないとの議論があります。つまり、柿本人麻呂の代表作品と認定されるまでには、人麻呂の死没後、およそ、二百五十年以上の時の流れがあることになります。
 もったいぶりました。古今和歌集羇旅歌の部立に載る、その歌を次に紹介します。
 
題しらず よみ人しらず  
歌番409
和歌 保乃/\止安加之乃宇良乃安佐幾利尓之加久礼意久布祢遠之曽於毛不
読下 ほのほのとあかしのうらのあさきりにしまかくれいくふねをしそおもふ
通釈 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
左注 己乃宇多者安留人乃以者久柿本人麿可哥也
通釈 このうたはある人のいはく柿本人麿か哥也
 
 ただ、一般には最初に紹介したものではなく、次のような表記のものが有名だと思いますので、それも紹介致します。歌の表記は近代的な「漢字交じり平仮名」となっています。ただし、この近代的な歌の景色は古今和歌集のものとは全くに違います。それは近代歌道の手本となった鎌倉時代からの藤原定家風の好みによる解釈です。
 
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
 
 ここで古今和歌集の方の、この歌の評価ついてインターネットで調べて見ますと、次のような評価を見ることが出来ます。
 
ü  これは昔のよき歌なり(藤原公任・新撰髄脳)。
ü  上品上。これは言葉妙にして余りの心さへあるなり(藤原公任・和歌九品)。
ü  柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり(藤原俊成・古来風躰抄)。
 
 この平安中期の藤原公任や平安後期の藤原俊成の評価により、ほぼ、この歌の価値が決定されたと考えられます。紹介しました藤原俊成の『古来風躰抄』は鎌倉時代初期となる1197年頃の歌学書です。他方、藤原公任の『新撰髄脳』や『和歌九品』の歌論書は1041年の彼の死去以前に編まれたものですので、少なくとも、11世紀初頭になって「ほのぼのとあかしの浦の」の歌は人麻呂の代表作と目されています。
 万葉集に関係するところでは万葉集研究者の契沖がこの歌について次のような解説を残しています。契沖は江戸時代前期に活躍した人物ですので、歌は平安時代中期から江戸時代前期まで安定して評価されていたと考えられます。
 
人丸の哥にて和歌九品にも上々とし、これはことばもたへにして、あまりの心さへあるなりといはれたるほどの哥なればとおもひて、しひていふなるべし。此集の肝要の哥ならばいかでかこれをもらさるべきや。但是は哥の玄々にあらざるにはあらず。
 
 ところで、最初に紹介しましたように、この作品の作者について一部の早とちりの人の誤解釈から別人説があります。その別人説では『今昔物語集』巻第二十四に載る「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話を根拠として、紹介した「ほのぼのとあかしの浦の」の歌を小野篁の作品で、彼が隠岐島へ流刑に処せられたときに、その道中で詠われたものと紹介します。
 しかしながら、真面目に作品の歴史を調べますと、この「ほのぼのとあかしの浦の」の歌の初出は平安初期(905年)の古今和歌集であり、平安末期から鎌倉時代初期の作品(推定で1120年代ごろ)とされる今昔物語集との間には二百年もの時間の流れがあります。その間、小野篁作品説を説くものはありません。反って、多くの歌論書は古今和歌集や拾遺和歌集などから柿本人麻呂の作品とします。およそ、「ほのぼのとあかしの浦の」の歌が小野篁の作品とするには、慎重にその根拠と考察を行うことが求められます。手始めに、まず、古今和歌集に載る左注の記事を否定することから始めなくてはいけませんから、学問的には、小野篁作品説とは、そのような話題が今昔物語集に載っているとするのが良いようです。このあたりの事情については徳原茂実氏の「小野篁の船出―『わたの原八十島かけて』考―」にも示されていますので、インターネット検索で確認下さい。なかなか、その背景の解説には興味深いものがあります。
 参考として、稿では、小野篁は隠岐国配流に際し延喜式に載る公式官道に従い平安京から陸路、山陰道を使い、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国を経て出雲国千酌駅(松江市美保関町)の船着場から隠岐島へと渡海したであろうと紹介しています。つまり、小野篁は伝統の今昔物語集の解説で示される攝津国川尻の湊や明石沖合の航行とは関係が無いことは明らかです。
 当然、律令時代では官僚・貴族が公務以外で京を離れ畿外に旅することは禁止されていますから、隠岐国配流とは別に明石を訪れる可能性として私的な旅行を行ったと云う想定も難しいと考えます。いわゆる、「まぎれ」の可能性です。小野篁が明石を詠う可能性が隠岐国配流の時ではないとすると、唯一の可能性として考えられるのが遣唐使副使として唐への渡海の時です。その時、条件として遣唐使の大船が明石の浦に停泊していないといけないことになります。これですと、可能性はありますが今昔物語集とはまったく違う背景となります。確かに、小野篁は有名な遣唐使の騒動によると、二往復ほど明石を通過しています。しかし、このことから今昔物語集の記事が真実であるとすることは難しいと考えます。
 今日のインターネットの時代は、このような調査がわずかな時間で行えますし、その裏付け調査も容易であると云うことは、一面、便利ですが、恐ろしいものがあります。およそ、現代ですと小説と史実の区分することは重要ですが、室町時代や昭和の時代ではそれを咎めることもなかったでしょう。ただ、現代で今昔物語集と云う小説集を下にして小野篁作品説を唱えることは、文学研究者が行うのですと大変な勇気がいる行為と推察します。政府の方針で公金に関わる研究や職務からの研究書や論文等はインターネット上に公開することが求められ、それは未来に渡り消せない公開記録です。およそ、従来のような学内紀要として仲間内だけでの秘匿された公開書として処理が出来ないのです。ある種の学業経歴の公開処刑のような状況を生む、困ったことです。
 当然、ここまでの話を了解した上で、それでもなお、小野篁作品説を唱える人は古今和歌集編纂以前から表には知らされない隠された伝承が存在し、それが鎌倉時代になって初めて世に示されたと説明します。つまり、この歌には小野篁に関係する怨念、陰謀、等々の渦巻く歴史があり、藤原氏が主導権を握っていた平安時代には小野篁作品説は公表出来ず、柿本人麻呂に仮託したとします。この論説を裏付けるものは歴史的には全くにありませんが、実に大変な解釈です。
 さて、この「ほのぼのとあかしの浦の」の歌は、一般では小野篁に関係する伝統の解説から現在の兵庫県明石市の海岸の風景を詠った歌と解釈されています。ところが、古今和歌集が編まれた平安時代初期の人々がこの歌を明石地方の風景を詠ったものと解釈していたかと云うとその確証はありません。先に紹介しましたように古今和歌集のものと近代解釈のものとで歌の表記方法が違いますので、その表記の相違から歌の解釈が変質します。重要な指摘として、古今和歌集などの平安時代中期までの古今和調の短歌は一字一音の万葉仮名や変体仮名で表記されますから、現在のような歌の表記において「明石」と云う漢字二文字の表記を使う可能性は全くにありません。音漢字三文字の「安加之」です。
 この古今和歌集に載る和歌の表記問題について、筑波大学で行われた高野切本古今和歌集復元事業の報告によりますと、少なくとも、11世紀中期以前に書写されたと推測される『高野切本古今和歌集』では「歌中に漢字を交えないのが原則」とされています。また、12世紀初頭の拾遺和歌集の古い形を残す書写も、詞書を除けば和歌自体は「歌中に漢字を交えない」表記スタイルです。つまり、平安時代中期までの伝統からすれば、「あかしの浦」や「あかしの裏」は「安加之乃宇良(あかしのうら)」と「歌中に漢字を交えない」表記スタイルで表記されるものであり、そこから古今和歌集好みの掛詞技法の下、「明しの浦」、「飽かしの浦」、「明石の浦」などと複数に解釈されるものであって、もし、「あかしの浦」が「ほのぼのと」と形容されるのであれば朝焼けや夜明けを示す「明しの浦」や景色に堪能したと云う意味合いでの「飽かしの浦」の解釈の方が相応しいものとなります。その時、歌は写実の歌ではなく、回想の歌である可能すら浮かんで来るのです。時に、歌の中に前日の風光明媚な海辺の景色が示されている可能性があるのです。そこに藤原公任が云う「言葉妙にして余りの心さへある」が示されていると考えます。紀貫之の死没が945年で、藤原公任の死没は1041年と、そこには百年の時の流れがありますが、まだまだ、古今和歌集の歌の世界の伝統は藤原公任の生きた時代には引き継がれていたと想像します。加えて、「うら」の「浦」が掛詞として「裏」、「心」と解釈する余地の可能性があるのなら、「思い」、「本心」や「なになにの証拠」のような拡大もあり得るのです。
 余談として伝統的な歌の表記を紹介しますと、次のようになっています。歌を解釈した人により、歌の表記が変化していることが理解できるのではないでしょうか。伝統において「あかしのうら」を「明石の浦」と表記してはいけないことだけは理解していただけると思います。もし、論文などで古今和歌集の歌を引用する場合、本来はすべて清音の平仮名表記であるべきと考えます。強いて、漢字交じり平仮名表記を採用する場合、それを採用した歌の景色とその解釈を紹介しなければ不十分です。
 
『古今和歌集』の表記
ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
『和歌九品』の表記
ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
 
インターネット検索での調べた歌の表記
例1、「古今和歌集の部屋」より
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
 
例2、「平安朝の人麻呂像形成 吉村誠」(山口大学研究論叢. 人文科学・社会科学巻 : 58 号)より
A.       ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ (本文中)
B.       ほのゝゝとあかしの浦の朝霧にしまかくれゆく舟をしぞ思 (「古今著聞集」引用)
C.       ホノゝゝトアカシノ浦ノアサギリニ嶋カクレ行ク舟ヲシゾオモフ (「古今物語」引用)
 
 ついでに、言葉を確認しますと、歌の初句の「ほのぼの」の言葉は「仄仄」と漢字表記され、「ほのかに。かすかに。ほんの少し」と云う意味合いで解釈します。それは、現代用語での「ほのぼの」の言葉を「ほんのりと暖かい、ほんのりと心暖まる」と云うような例文で解説されるものとは、目で見る光を中心とするか、それとも感じる温度を中心とするかのような語感に相違があることを確認する必要があります。
 ここで、当然、伝承では柿本人麻呂の歌とされているのですから、古今和歌集に載る歌番409の歌は漢詩体歌か、非漢詩体歌かと称される漢語と漢字だけで表記された歌から翻訳されたものであろうと推定しなければいけません。およそ、短歌三十一文字全部を万葉仮名で表記方法を意識して行うようになるのは大伴旅人が大宰府の彼の役宅で開催した天平二年の梅花の宴以降です。つまり、作歌者と時代性、また、日本語表記の歴史からすると柿本人麻呂が歌番409の歌を現在に伝わるような「一字一音の変体仮名表記」で歌を詠った可能性はありません。
 そうした時、万葉集の表記を確認しますと「仄」と云う漢字を使った歌は万葉集中にはありません。一方、万葉集の訓読み和歌に「ほのか」と詠うものは存在します。おおむね、万葉集中では「ほのか」は「髣髴」と表記するものが多く、特殊な表記として集歌2394の歌では「風所」と表記して「ほのかに」と訓みます。さらに「あかし」の「あか」は「暁」や「明」の漢字が使われた可能性が高く、集歌3035のような「暁之」なる表記を使った歌もあります。
 
「髣髴」の用例
集歌3085
原文 朝影尓 吾身者成奴 玉蜻 髣髴所見而 徃之兒故尓
訓読 朝影(あさかげ)に吾(あ)が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 朝の影法師のように私の体は痩せ細ってしまった。玉がきらめくようにわずかに姿を見せて行ってしまったあの娘子のために。
 
「風所」の用例
集歌2394
原文 朝影 吾身成 玉垣入 風所見 去子故
訓読 朝影(あさかげ)し吾(わ)が身はなりぬ玉(たま)垣(かき)るほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
私訳 光が弱々しい日の出のように私は痩せ細ってしまいました。大宮へ入って行く風のように、ほんの少し姿を見せて行きすぎて行った貴女のために。
 
「暁之」の用例
集歌3035
原文 暁之 朝霧隠 反羽二 如何戀乃 色舟出尓家留
試訓 暁(あかとき)し朝霧隠(こも)りかへらばに何しか恋の色付(にほひ)出でにける
試訳 暁の朝霧に何もかにもが立ち隠っているように、想いを隠していたのに、反って、どうした訳か、霧の中を舟出するように恋い焦がれる雰囲気がほのかに立ち上ってしまいました。
 
 遊びですが、可能性として次のような歌が人麻呂時代に存在すると「ほのぼのと・・・」のような歌に翻訳されることがあったかもしれません。
 
髣髴之暁之浦之朝霧二従嶋隠去船所念
 
 古今和歌集編纂の直前に編まれた歌集に新撰万葉集があり、それは菅原道真の遣唐使一員として大唐への渡航に備え、日本文化を紹介するために平仮名で表記・記録された当時に詠われた和歌に対し、万葉集風に漢語と万葉仮名だけで表現したものを作歌するのと同時に和歌の景色を漢詩で表現すると云う試みをしたものです。その作業の逆の行為として万葉集の漢語と万葉仮名だけで表現したものを平仮名表記に翻訳することは、極、自然に行われていたと推測されます。
 裏返せば、古今和歌集に載る歌番409の歌の原歌は万葉集の漢語と万葉仮名だけで表現したものと想像しても、それはそれほど特異な推論ではないことになりますし、そのような推論を行う必然性があります。
 
新撰万葉集 下 歌番196 柿本人麻呂
和歌 秋之野丹 立麋之聲者 吾曾鳴 獨寢夜之 數緒歴沼禮者
読下 あきののに たつしかのねは われそなく ひとりぬるよの かすをへぬれは
漢詩 秋夜麋咩處處響 毎山蟲咽數數聒 月光飛落照黄菊 濤花開来解池怨
 
 さて、表記での遊びの続きで、瀬戸内海は新暦の五月から六月頃が海霧発生の時期に当たります。万葉集に載る柿本人麻呂が歌う海辺の歌で、時期も新暦五月から六月の景色を詠うものとしては羇旅歌八首が有名です。抜粋しますと、次のような歌があります。従いまして、古今和歌集歌番409の歌は「明石」の風景ではありませんが、播磨国印南郡から加古郡の海岸線から見た景色、それも加古川河口の砂州付近の歌であったかもしれません。
 人麻呂が詠う集歌253の歌の「可古の嶋」は、現在のところ確定した場所や島はありません。ただ、古代から播磨国と但馬国とを結ぶ交通の要所であった加古川の河口に築かれた湊付近が候補に登り、およそ、それは加古川河口右岸の砂州ではないかと推定されています。
 
集歌251
原文 粟路之 野嶋之前乃 濱風尓 妹之結 紐吹返
訓読 淡路し野島し崎の浜風に妹し結びし紐吹きかへす
私訳 淡路の野島の崎に吹く浜風に貴女が結んだ約束の紐が貴女の想いを載せて吹き返す。
 
集歌253
原文 稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見
訓読 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき可古の島見ゆ
私訳 稲美野も行き過ぎてしまって、ふと思うと目的としていた加古の島が見える。
 
 なお、表記について遊びを行いました歌に、さらなる可能性がある場合、時に「ほのぼのと・・・」の歌は奥琵琶湖の海津大崎付近の景色かもしれません。柿本人麻呂は、若い時代、近江国高島地方を訪れて歌を残していますので、その可能性から高島市マキノの「海津大崎の暁霧」の風景を詠ったかもしれません。奥琵琶湖もまた春から梅雨時が湖水霧のシーズンのようです。この時、「あかしのうら」は「払暁の光が明るい浦」、「夜を明かした浦」、「景色に飽かした浦」などの意味合いを持つことになります。地名ではありません。
 参考に近江高島で人麻呂が詠った歌を紹介します。
 
集歌1690
原文 高嶋之 阿渡川波者 驟鞆 吾者家思 宿加奈之弥
訓読 高島し阿渡(あと)川波(かわなみ)は騒くともわれは家(いへ)思(も)ふ宿(たび)し悲しみ
私訳 高島の阿渡川の川浪が音高く騒いでいても、それでもしみじみ、私は家を思い出します。旅の辛さに。
 
集歌2436
原文 大船 香取海 慍下 何有人 物不念有
訓読 大船し香取(かとり)し海し慍(いかり)下(おろ)しいかなる人か物(もの)思(も)はずあらむ
私訳 大船が高島の香取の入江に碇を下ろす。その言葉のひびきではないが、逢えないことへの怒りを下す。どのような人が、逢えない恋人に物思いをしないことがあるでしょうか。
 
 ずいぶんと、一般に思われている歌の景色や歴史とはかけ離れたものになりました。ただ、世間に紹介されているもので信頼性のあるものを集めるとこのような歌の鑑賞になります。小野篁は有名人物でその生涯も十分に研究された人物です。従いまして彼を題材として作られた小説と史実との区別は容易なことと考えます。それに反して小説を史実として受け入れる態度は、繰り返します、いかがなものでしょうか。ただ、不遜な感想ではありますが文学研究分野において古今和歌集もまた万葉集と同様にきちんとは鑑賞されない歌集なのかもしれません。万葉集の歌の感覚や紀貫之の歌風が好みではなかった藤原定家の解釈がすべて正しいかのような前提条件はある種の色眼鏡ではないでしょうか。
 以上、「寸恵乃松山」と「末の松山」から長々と馬鹿話やら与太話を述べましたが、ここで示した和歌の鑑賞態度はちょっと従来の鑑賞態度とは違うものです。そこをご了解頂ければと希望します。

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