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万葉集 日本紀の記事

 歴史の史書に日本書紀というものがあります。他方、万葉集、続日本紀、日本後紀、弘仁日本紀私記序などの奈良時代から平安時代初頭のものでは日本書紀とは違い、日本紀と言う言葉を使います。この「日本書紀」と「日本紀」との違いに注目して、今回は、万葉集、続日本紀、日本後記などから、日本紀と「紀」および古事記と「記」に関する原文と訓読みを紹介します。ただし、基本は原文の紹介が中心ですので、ある種の資料提供のようなものです。読み物としては、全くに、詰まりません。
 ただし、紹介する原文は「歴史の専門家の決まり事」に従って「校訂」、「誤字修正」、「脱字補完」などの作業を行ったものとはとは違い、万葉集、続日本紀、日本後記などの本来の原文に対して、「日本紀」を「日本書紀」の誤記や脱字とする、文中の「紀」を「日本書紀」の略称と見做す「特殊な意訳」などを行っていません。あくまでも、原文を忠実に尊重しています。
 一般に、学校で歴史や古典を学ぶ「良い子たち」が、「日本紀と日本書紀との違いなどから、歴史は変えられるのですか?」と、後年の為政者が自分たちの都合に合わせて歴史書をいじくったとの疑問を持たないように、そのような疑問を持つ可能性がある箇所は「校訂」、「誤字修正」、「脱字補完」などを行った上での「特殊な意訳」を行います。ここでその「特殊な扱い」をしない背景には、次の理由があります。
 ご承知のように、原文の日本後紀に従うと、日本後紀巻五に載る延暦十六年(797)二月己巳(13)の記事が示すように、延暦九年から桓武天皇の勅命で国史の再編纂事業を行っています。この桓武天皇の国史の再編纂事業が、どこまでの範囲で、どのような目的であったかは、日本後紀逸文補綴の「巻三の続日本紀の編纂記事」では、最初、続日本紀は光仁天皇の命により文武元年から天平宝亀年間までを二十巻本として編みますが、それを桓武天皇の命で十四巻本に集約したとします。さらにその二十巻本も十四巻本も厳重に秘匿します。他方、日本後紀の「巻五の続日本紀の編纂記事」では、あらたに桓武天皇の御世を含むという異例の要請の下に文武元年からの国史の編纂を行い、四十巻本として編纂を終えたとします。つまり、続日本紀の編纂記事がまったくに違う内容を載せますので、その実態は不明です。国史研究でも、この続日本紀は編纂過程で異例が多すぎるので、その分、編纂の実態は不明となっています。
 ただ、桓武天皇にとって、臣下たちが編んだ光仁天皇までの歴代の天皇が行ってきた事績・実態を下にした国史の内容が、その桓武天皇の思う歴史に合致していなく、二つの続日本紀をお蔵入りにさせ、そのお蔵入り事件の後に三度目の国史の編纂を命じた事実が判るだけです。なお、日本後紀と現存するものからすると、日本紀と現在の続日本紀は延暦十六年改訂版が正本となっています。ただ、日本後紀巻五の延暦十六年(797)二月己巳(13)の詔の記事にあるように、この時点で、まだ「日本書紀」は編纂されていません。桓武天皇は国史の再編纂を行いましたが、この延暦十六年時点での国史の名称は「日本紀」と「続日本紀」です。つまり、続日本紀の養老四年(720)五月癸酉(21)の記事の「日本紀」を日本書紀と意訳するものがありますが、これは完全な意図を持った誤訳ですし改訂です。
 面白いことに延暦十三年版の続日本紀の編纂記事では、その奏上文の一節、「若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。」のから推定して、持統天皇の存在は認めていないようです。どうも、「延暦十三年時点での日本紀」は「清原御寓」までですが、この「清原」とは「浄御原」のことと考えるのが相当とすると天武天皇のこととなり、「延暦十三年時点での日本紀」は男帝だけを取り上げてのものですし、これに歩調を合わせると「延暦十三年時点での続日本紀」も男帝だけを取り上げてのものだった可能性があります。すると現在の姿からの推定で桓武天皇から嵯峨天皇の時代に、日本紀と続日本紀とに新たに女帝を加えて正史を編み直した可能性が生まれます。
 以前に、「万葉時代と日食観測」の与太話で、日本書紀巻30の記事は後年の作為で編纂された可能性が高く、日食観測記事や暦の記事に辻褄が合わないと指摘しました。可能性としてこのような事なのでしょう。
 以下は最初に述べましたように資料の提供です。なお、「日本書紀」の言葉が現れるのは嵯峨天皇以降の日本紀講筵時代ですから、万葉集などで「日本紀」という言葉が使われていた場合は、嵯峨天皇が開催して弘仁4年の日本紀講筵以前に書かれたのであろうとの推定が可能です。
 以下は資料提供だけですので、ものとしてはここで終わりです。

<資料提供>
万葉集の歌の標題及び左注
集歌6
原文 山越乃 風乎時自見 寐不落 家在妹乎 懸而小竹櫃
訓読 山越(やまこし)の風を時じみ寝(ぬ)ぬるをおちず家なる妹を懸(か)けて偲(しの)ひつ
左注 右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。但、山上憶良大夫類聚歌林曰、記曰、天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮云々。一書云、 是時宮前在二樹木。此之二樹斑鳩比米二鳥大集。時勅多挂稲穂而養之。乃作歌云々。若疑従此便幸之歟。
注読 右は、日本書紀を檢(かむが)ふるに讃岐國に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王は未だ詳(つまび)らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「記に曰はく『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔壬午、伊豫の温湯の宮に幸す云々』といへり。一書(あるしょ)に云はく「『是の時に、宮の前に二つの樹木在り。此の二つの樹に斑鳩・比米二つの鳥大(さは)に集まれり。時に、勅(みことのり)して多くの稲穂を挂けてこれを養ひたまふ。乃ち作れる歌云々』といへり」といへり。若(けだ)し、疑ふらくは此より便(すなは)ち幸ししか。

標題 額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳(つばひ)らならず
集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢ふるに曰はく「一書(あるふみ)に戊申の年、比良の宮に幸(いでま)すときの大御謌」といへり。但し、紀に曰はく「五年の春、正月己卯の朔の辛巳、天皇、紀の温湯(ゆ)より至(かへ)ります。三月戊寅の朔、天皇吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)す。庚辰の日、天皇近江の平の浦に幸す」といへり。

集歌15
原文 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 渡津(わたつ)海(うみ)の豊旗(とよはた)雲(くも)に入(いり)日(ひ)寝(ね)し今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
左注 右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。但し、旧本に此の歌を以つて反歌に載す。故に今猶此の次に載す。また、紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。

集歌18 三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉
訓読 三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや
左注 右二首謌、山上憶良大夫類聚歌林曰、遷都近江國時、御覧三輪山御謌焉。日本書紀曰、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、遷都于近江。
注読 右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく「都を近江國に遷す時に、三輪山を御覧(みそなは)す御歌(おほみうた)なり」といへり。日本書紀に曰はく「六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷す」といへり。

標題 皇太子答御謌 (明日香宮御宇天皇、謚曰天武天皇)
標訓 皇太子の答へませる御歌 (明日香宮御宇天皇、謚して曰はく「天武天皇」)
集歌21
原文 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
訓読 紫草(むらさき)の色付(にほへ)る妹を憎くあらば人嬬(ひとつま)故に吾(あ)が恋ひめやも
左注 紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日、縦猟於蒲生野。于時大皇弟諸王内臣及群臣、皆悉従焉。
注読 紀に曰はく「天皇七年丁卯夏五月五日、縦猟於蒲生野。于時大皇弟諸王内臣及群臣、皆悉従焉」といへり。

標題 十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
標読 十市皇女の、伊勢神宮に参り赴むく時に、波多横山の巌を見て吹黄刀自の作れる謌
集歌22 
原文 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草(くさ)生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(おとめ)にて
左注 吹黄刀自未詳也。但、紀曰、天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女、阿閇皇女、参赴於伊勢神宮。
注訓 吹黄刀自は未だ詳かならず。但し、紀に曰はく「天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥、十市皇女と阿閇皇女の伊勢神宮に参り赴く」といへり。

標題 麻續王聞之感傷和謌
標訓 麻續王の之を聞きて感傷みて和へる歌
集歌24
原文 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
訓読 現世(うつせみ)の命を惜しみ浪に濡れ伊良虞(いらご)の島の玉藻刈り食(は)む
左注 右、案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪、流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。
注読 右は、日本紀を案(かむが)ふるに曰はく「天皇四年乙亥の夏四月戊戌の朔の乙卯、三位麻續王罪有り、因幡に流す。一子を伊豆の嶋に流し、一子を血鹿の嶋に流す」といへり。是に伊勢國伊良虞の嶋に配(なが)すといふは、若(けだ)し疑(うたが)ふらく後の人の歌の辞(ことば)に縁りて誤り記せるか。

集歌27
原文 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見多 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見た良き人よく見つ
左注 紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注読 紀に曰はく「八年己卯五月庚辰の朔の甲申、吉野の宮に幸(いでま)す」といへり。

集歌34
原文 白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武
訓読 白波の浜松が枝(え)の手(た)向(む)けぐさ幾代までにか年の経(へ)ぬらむ
左注 日本紀曰、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇幸紀伊國也。
注訓 日本紀に曰はく「朱鳥四年庚寅秋九月、天皇の紀伊國に幸(いでま)す」といへり。

集歌39
原文 山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母
訓読 山川も依りて奉(つか)ふる神ながら激(たぎ)つ河内に船出せすかも
左注 右、日本紀曰、三年己丑正月、天皇幸吉野宮。八月幸吉野宮。四年庚寅二月、幸吉野宮。五月幸吉野宮。五年辛卯正月、幸吉野宮。四月幸吉野宮者、未詳知何月従駕作謌。
注訓 右は、日本紀に曰はく「三年己丑の正月、天皇吉野の宮に幸す。八月吉野の宮に幸す。四年庚寅二月、吉野の宮に幸す。五月吉野の宮に幸す。五年辛卯正月、吉野の宮に幸す」といへり。四月に吉野の宮に幸すは、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕に作れる歌か知らず。

集歌44
原文 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
左注 右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官。於是、中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前、車駕未可以動。辛未、天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
標訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄肆廣瀬王等を留守の官と為す。是に中納言三輪朝臣高市麻呂其の冠位を脱ぎ朝(みかど)に撃上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく『農作の前に、車駕未だ以つて動くべからず』といふ。辛未、天皇の諌に従わず、遂ひに伊勢に幸す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮に御(いでま)す」といへり。

集歌50
原文 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
訓読 八(はち)隅(すみ)知(し)し 吾(あ)が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 葛原(ふぢわら)が上に 食(を)す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物の布(ふ)の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居(ゐ)て 吾(あ)が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負(お)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有(な)らし
左注 右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原宮に地に幸(いでま)す。八年甲午の春正月、藤原宮に幸す。冬十二月庚戌の朔の乙卯、藤原宮に遷居(うつ)る」といへり。

標題 古事記曰、軽太子、奸軽太郎女。故其太子流於伊豫湯也。此時衣通王、不堪戀暮而追徃時謌曰
標訓 古事記に曰はく、軽太子、軽太郎女に奸く。故、其の太子を伊豫の湯に流す。此時、衣通王、戀暮に堪へずして追ひて徃く時の歌に曰はく、
集歌90 君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待
訓読 君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを往(ゆ)かむ待つには待たじ
左注 右首謌、古事記与類聚林所説不同。謌主亦異焉。因檢日本紀曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語皇后、納八田皇女将為妃。時皇后不聴。爰天皇謌以乞於皇后云々。卅年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊行紀伊國、到熊野岬、取其處之御綱葉而還。於是天皇、伺皇后不在、而娶八田皇女納於宮中。時皇后、到難波濟、聞天皇合八田皇女、大恨之云々。亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨軽皇子為太子、容姿佳麗、見者自感。同母妹軽太娘皇女、亦艶妙也。云々。遂竊通、乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作氷。天皇異之、卜其所由、卜者曰、有内乱。盖親々相奸乎云々。仍移太娘皇女於伊与者。今案二代二時不見此謌也。
注訓 右の一首の歌は、古事記と類聚歌林の説ふ所は同じからず。歌の主もまた異なれり。因りて日本紀を檢ふるに曰はく「難波高津宮に御宇大鷦鷯天皇の二十二年春正月、天皇、皇后に語りて『八田皇女を納(めしい)れて将に妃となさむとす』といへり。時に皇后聴さず。爰(ここ)に天皇の歌よみして以つて於皇后に乞ひたまひしく云々。三十年秋九月乙卯の朔の乙丑、皇后の紀伊國に遊行して熊野の岬に到りて其の所の御綱葉を取りて還りたまひき。是に天皇、皇后の在(おは)しまさざるを伺ひて八田皇女を娶きて宮の中に納れたまひき。時に皇后、難波の濟(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつを聞かして、大く之を恨みたまひ云々」といへり。また曰はく「遠飛鳥宮に御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇の二十三年春正月甲午の朔の庚子、木梨軽皇子を太子としたまひき。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく、見る者自ら感(め)でき。同母妹(いろも)軽太娘皇女もまた艶妙(えんみょう)。云々。遂に竊かに通(たは)け、乃ち悒(おほほ)しき懐少(こころ)しく息(や)みぬ。二十四年夏六月、御(み)羮(あつもの)の汁(しる)凝(こ)りて以ちて氷と作(な)す。天皇の之を異(あやし)びて、其の由を卜ふ、卜の者の曰はく『内に乱れ有り。盖し親々(しんしん)相(あひ)奸(たは)けたるか云々』といへり。仍りて太娘皇女を伊豫に移す」といへり。今案ふるに二代二時に此の歌を見ず。

集歌158
原文 山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴
訓読 山吹の立ち儀(よそ)ひたる山(やま)清水(しみず)酌(く)みに行かめど道(みち)の知らなく
左注 紀曰、七年戊寅夏四月丁亥朔癸巳、十市皇女卒然病發薨於宮中
注訓 紀に曰はく「七年戊寅の夏四月丁亥の朔の癸巳、十市皇女卒然(にはか)に病發(おこ)りて宮の中に薨(かむあが)りましき」といへり。

集歌193
原文 八多篭良我 夜晝登不云 行路乎 吾者皆悉 宮道叙為
訓読 畑子(はたこ)らが夜(よる)昼(ひる)といはず行く道を吾はさながら宮道にぞする
左注 右日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未薨。
注訓 右の日本紀に曰はく「三年己丑の夏四月癸未の朔の乙未に薨(かむあが)りましぬ」といへり。

集歌195
原文 敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖交(か)へし君玉(たま)垂(たれ)の越野(をちの)を過ぎ去(ゆ)くまたも逢はめやも
左注 右或本曰、葬河嶋皇子越智野之時、獻泊瀬部皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川嶋薨。
注訓 右は或る本に曰はく「河嶋皇子を越智野に葬(はふ)りし時に、泊瀬部皇女に獻れる歌なり」といへり。日本紀に曰はく「朱鳥五年辛卯の秋九月己巳の朔の丁丑、浄大参皇子川嶋薨(かむあが)りましぬ」といへり。

集歌202
原文 哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴
訓読 哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祷祈(いの)れども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ
左注 右一首類聚歌林曰、桧隈女王、怨泣澤神社之謌也。案日本紀曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後尊薨。
注訓 右の一首は類聚歌林に曰はく「桧隈女王の、泣澤神社を怨むる歌」といへり。日本紀を案(かむが)ふるに曰はく「十年丙申の秋七月辛丑の朔の庚戌、後(のちの)尊(みことの)薨(かむあが)りましぬ」といへり。

続日本紀の記事
養老四年(720)五月癸酉(21)
原文 癸酉、太政官奏、諸司下国小事之類、以白紙行下、於理不穏。更請内印、恐煩聖聴。望請、自今以後、文武百官下諸国符、自非大事、差逃走衛士・仕丁替、及催年料廻残物、并兵衛・采女養物等類事。便以太政官印印之。奏可之。
頒尺様于諸国。
先是、一品舍人親王奉勅修日本紀。至是功成、奏上紀卅巻・系図一巻。
訓読 癸酉に、太政官の奏していはく「諸司の国の小事の類(たぐひ)を下すに、白き紙行を以つて下すは理に於いて穏やかならず。更に内に印(しるし)を請ふは聖聴を煩(わづらは)すことを恐(かしこ)む。請を望みて、今より以つて後、文武百官の諸国に符を下すに、大事に非らざる逃走せし衛士・仕丁の替(かへ)の差(さしだ)し、及び年料の催(うなが)し、残りし物の廻(まは)し、并せて兵衛・采女を養ふ物の等(たぐひ)に類する事は、便ち之を印するに太政官の印(しるし)を以つてす」と申す。奏する之を可とせし。
尺の様(かた)を諸国に頒(く)ばる。
是より先。一品舍人親王の勅を奉じて日本紀を修む。是に至り功成りて、紀三十巻と系図一巻を奏上す。

日本後記
日本後記 巻三(逸文 欠補類聚国史)
延暦十三年(794)八月癸丑(13)
原文 癸丑。右大臣從二位兼行皇太子傅中衞大將藤原朝臣繼繩等、奉勅修國史、成。詣闕拝表曰、臣聞、黄軒御暦、沮誦攝其史官、有周闢基、伯陽司其筆削、故墳典新闡、歩驟之蹤可尋、載籍聿興、勸沮之議允備曁乎。班馬迭起、述實録於西京、范謝分門、聘直詞於東漢、莫不表言旌事。播百王之通猷、昭徳塞違、垂千祀之烱光、史籍之用、蓋大矣哉。伏惟聖朝、求道纂極、貫三才而君臨、就日均明、掩八州而光宅、遠安邇樂、文軌所以大同。歳稔時和、幽顕於焉褆福、可謂英聲冠於胥陸、懿徳跨於勳華者焉。而負戻高居、凝旒廣慮。修國史之墜業、補帝典之欠文、爰命臣與、正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道・少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等、銓次其事、以繼先典。若、夫襲山肇基以降、清原御寓之前、神代草昧之功、往帝庇民之略、前史所著、燦然可知。除自文武天皇、訖聖武皇帝、記注不昧、余烈存焉。但起自寶字、至寶亀、廃帝受禪、褞遺風於簡策、南朝登祚闕茂實於從湧。是以故中納言從三位兼行兵部卿石川朝臣名足・主計頭從五位下上毛野公大川等、奉詔編緝、合成廿卷。唯存案牘、類無綱紀。臣等、更奉天勅、重以討論、芟其蕪穢、以撮機要、庶其遺逸、以補闕漏、刊彼此之枝梧、矯首尾之差異。至如時節恒事、各有司存一切詔詞、非可爲訓。触類而長、其例已多。今之所修、並所不取。若其蕃國入朝、非常制勅語關聲教、理歸勸懲、総而書之、以備故實。勒成一十四卷、繋於前史之末。其目如左。臣等学謝、研精詞慙質辨。奉詔淹歳。伏深戦兢。
有勅、藏于秘府。
訓読 癸丑。右大臣從二位兼行皇太子傅・中衞大將藤原朝臣繼繩等の、勅(みことのり)を奉じて國史を修め、成る。詣(けい)を闕(か)き拝表をして曰はく「臣聞かく、黄の御暦を軒(あ)げ、沮誦(しょしょう)の其の史官を攝(か)ね、周の基(もと)を闢(ひら)くに有りて、伯陽の司は其の筆を削り、故(いにしへ)の墳典を新しく闡(ひら)き、驟(は)して蹤(しょう)の可なるを尋ね歩き、聿(ひつ)を興(おこ)し籍に載せ、沮の議を勸め、允(おさ)め備ふに曁(およ)ぶ。班と馬を迭(たが)ひに起し、西京において實録を述べ、范と謝の門を分ちて東漢の直詞を聘(と)ひて、言の旌事(せいじ)を表さざるはなし。百王の猷に通ずるを播(し)き、昭徳の塞(そく)の違ひ、千祀の烱光を垂れ。史籍の用は、蓋し大きなるや。伏して聖朝を惟(おもむみ)きて、道の纂に極むを求め、三才を貫き君に臨みて、日の明く均なるに就き、八州を掩ひて光宅たり。遠く邇樂を安じて、文の軌するところを以つて大同す。歳は時に和すを稔じ、幽かに焉(ここ)に褆福を顕し、胥陸(しょりく)の英聲を冠すると云うべし。懿と徳の勳華を跨(また)ぐは焉(これ)なり。高居の扆(い)を負ひて、廣慮の旒(しるし)を凝(こ)らし、國史の業の墜(うしな)ふを修め、帝典の欠文を補ふ、爰(ここ)に命(みことのり)して臣を與げ正五位上行民部大輔兼皇太子学士左兵衞佐伊豫守臣菅野朝臣眞道・少納言從五位下兼侍從守右兵衞佐行丹波守臣秋篠朝臣安人等に、次の其の事を銓(はか)らせしめ、以つて先典を繼がせしむ。若(けだ)し夫れ、襲山の基を肇(ひら)くを以つて降(の)ち、清原御寓の前、神代の草昧(そうまい)の功、往(いに)しへの帝の庇民の略、前史の著すところ、燦然として知るべし。除(さず)くる文武天皇より聖武皇帝までの、記する注は昧(くら)からず、余(あま)す烈(れつ)は焉(ここ)に存(あ)る。但し宝字より宝亀に至る、廃帝の受禪、策を簡する遺風を愠(うら)み、南朝の登祚の從湧において茂實を闕(か)く。是を以つて故中納言從三位兼行兵部卿石川朝臣名足・主計頭從五位下上毛野公大川等の詔(みことのり)を奉じて編緝し、合せて二十卷は成なる。唯、牘(とく)の類(たぐひ)を案ずるに紀に綱無し存(な)り。臣等、更に天勅を奉じて、重ねて以つて討論し、其の蕪穢(ぶわい)を芟(のぞ)き、以つて機要を撮(と)り、其の遺逸を庶(ひろ)ふを以つて闕漏(けつろ)を補ひ、彼(か)の此の枝梧(しご)を刊し、首尾の差異を矯(たは)む。時節の恒の事に至るが如く、各(おのおの)の司の一切の詔(みことのり)の詞(ことば)の存(あ)るを有するのを訓(をし)ふるを可(ゆる)すにあらず。類(たぐひ)に触れ其の例を長(おさ)め、已の多きは、今、之を修むところに、並(ならぶ)る所を取らず。若(けだし)し其の蕃國の入朝、常あらざる勅語の關聲を制し、教理は勸懲に歸し、総て之を書(しるし)し、以つて故實を備なふ。勒して十四卷は成り、前史の末に繋(つな)ぐ。其の目(もく)は左の如し。臣等の学の研精、詞の質辨の慙を謝す。詔(みことのり)を奉じて淹歳(えんさい)たり、伏して深く戦兢(せんきょう)す」と申す。
勅(みことのり)有りて、秘(ひそやか)に府(おほやけ)に藏(おさ)めむ。

日本後記 卷五
延暦十六年(797)二月己巳(13)
原文 己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衞督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衞佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿禰巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典、上代之風存焉。左言右事、中葉之迹著焉。自茲厥後、世有史官、善雖小而必書、惡縱微而无隱、咸能徽烈絢相、垂百王之龜鏡、炳戒昭簡、作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳、道契八眉、握明鏡以惣萬機、懷神珠以臨九域、遂使仁被渤海之北、貊種歸心、威振日河之東、毛狄屏息。化前代之未化、臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳、孰能與於此也。既而負依餘閑。留神國典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但初起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦疎漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足・刑部卿從四位下淡海眞人三船・刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等、分帙修撰、以繼前紀。而因循舊案、竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已、寳字元年之紀、全亡不存。臣等搜故實於司存詢前、聞於舊老、綴叙殘簡、補緝缺文、雅論英猷、義關貽謀者、惣而載之。細語常事、理非書策者、並從略諸、凡所刊削廿卷、并前九十五年四十卷。始自草創、迄于斷筆、七年於茲、油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂與二儀而垂風、彰善痺惡、傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺、裁成國史。牽愚歴稔、伏増戰兢。謹以奉進。
歸之策府。
(宣命体の表記)
原文 是日。詔曰、天皇詔旨良麻止勅久。菅野眞道朝臣等三人。前日本紀與利以來、未修繼在留久年乃御世御世乃行事乎、勘搜修成弖。續日本紀四十卷進留勞。勤美譽美奈毛所念行須。故是以。冠位擧賜、治賜波久止勅御命乎、聞食止宣。
訓読 己巳。是より先、重ねて勅(みことのり)して從四位下行民部大輔兼左兵衞督皇太子學士菅野朝臣眞道・從五位上守左少辨兼行右兵衞佐丹波守秋篠朝臣安人・外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿禰巨都雄等に、續日本紀を撰じせしむ。是に至りて成る。上表して曰はく「臣聞く。三墳五典は上代の風に存り、左言右事は中葉の迹著にある。茲より厥の後、世に史官有りて、善は小と云へども必づ書(しる)し、惡は微を縱(ゆる)し隱すことは无(な)し。咸(ことごと)く能く徽烈(びれつ)絢相(けんそう)して、百王の亀鏡を垂れ、昭簡の戒めを炳(あき)らかにして千祀の指南を作る。伏して天皇陛下を惟(おもむみ)きて、徳は四乳を光(て)らし、道は八眉を契(むす)ぶ。明鏡を握りて以つて萬機を惣(す)べ、神珠を懷(ふところ)にして以つて九域に臨む。使を遂ひて仁を渤海の北に被(こほむ)ふり、貊種は歸心す。威を日河の東に振り、毛狄は屏息す。前代の未だ化さざるを化し、徃帝の臣にあらざるを臣とす。魏魏の徳の盛(さかん)に非らざるより、孰(たれ)、此に能を與げむ。既に依餘(いよ)の閑を負ひ、神國の典を留む。爰(ここ)に眞道等に勅して、次の其の事を銓(はか)らせしむ。奉じて先の業を揚げむ。それ宝字二年より延暦十年に至るまで三十四年、二十卷。前の年に勒(ろく)は成り奏上す。但し、文武天皇元年歳次(としのやどる)丁酉を初めとして起こし宝字元年丁酉まで、惣そ六十一年は、曹案の三十卷に有り。語は多にして米は鹽(もろ)く、事はまた疎漏なり。前(さき)の朝(みかど)の詔(みことのり)して故中納言從三位石川朝臣名足・刑部卿從四位下淡海眞人三船・刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等に分ちて修撰を帙(ちつ)せしめ、以つて前の紀に継ぐも、旧案に因循して、刊を正すことなく竟(おわ)わる。その上のところはただ二十九卷にて已(や)む。宝字元年の紀は全く亡して存せず。臣等は故實を司に存するを搜し、前聞を旧老に詢(と)ひ、殘簡を綴叙して、缺文(けつぶん)を補緝し、雅論英猷、義關貽謀は、惣く之を載す。細語常事、理非書策は、並(ならび)に從ひて諸(もろもろ)を略す。凡そ刊するところは二十卷を削づり、前に并せて九十五年、四十卷。草創を始めてより斷筆まで、茲(ここ)まで七年にして、素は油にして惣く畢(お)はる。其の目(もく)は別のごとく。庶飛英騰の茂の二儀を與し、善を彰(ひやう)し惡を單(にく)みの風を垂れ、作鑒して萬葉に伝ふ。臣等は輕を以つて管を窺がひ、國史を裁成す。牽愚歴稔、伏増戰兢。謹しみて以つて奉進す。」と申す。
之を府(おほやけ)の策に歸す。
(宣命体の表記)
是の日。詔して曰はく「天皇(すめらみこと)の詔(のり)旨(たまは)らまし勅(のたまら)く。菅野眞道朝臣等三人。前の日本紀より以來、未だ修繼の在る久年の御世(みよ)御世(みよ)の行事(わざ)を、勘搜修成して、續日本紀四十卷を進(たてまつ)る勞、勤(いそし)み譽(ほむ)みなもを念行(おぼほめ)す。故に是を以つて、冠位を擧げ賜はり、治を賜はりし、勅(のたまら)く御命(みこころ)を聞(きこし)食(め)し」と宣(の)る。

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