21/10/9 facebook限界集落化はPaaSが背負ったカルマだ

ものすごく雑な言い方をすると、僕は他人を嘲笑することが好きだ。大抵の物事をメタ的に見たり、相手の深層心理を想像して冷ややかに笑っている残念な人間なのだ。(もちろんそのシニシズムが自分に向けられることでほとんど毎日死にたくなっているわけだがそれはまた別の話)
だから割といつでも”笑う対象”を探しているわけだ。それで数ヶ月前からfacebookのおじさんおばさんの観察にハマっている。最低な趣味だ。
facebookにはグループ機能というのがあって、友人への投稿とは別にそのグループのメンバーに向けて投稿することができる。このグループというのは誰にでも作成することができて、運営者が選択すれば、参加希望者を弾くこともできる仕様になっている。多くの場合、特定の趣味や嗜好を持つ人が集まって情報交換したりすることに使われている。
具体名は明言しないが、このグループ機能を使って交流しているおじさんおばさんが一定数存在することを見つけた。僕は興味本位でそのグループに入ってみたのだけど、これがとても示唆に富んでいる。
僕の入ったグループではおじさんおばさんたちが自分の日常を投稿していて、時にはお互いにコメントを送りあったりしている。一見ものすごく牧歌的で平穏な風景なのだが、よくみるとそこにはちゃんとした”人間関係”がある。「〇〇さん最近見ない」とか「〇〇さんからこんなこと言われた」とか、どこかで喧嘩が起これば古参的な人が出てきて仲裁したり、それを周りのおじさんおばさんが批評したり...。時には同じような集まりの他グループでの揉め事が流入してきたりもする。こんなのはもう、完全に”村”ではないか。
ここで注目すべきなのは、アクターの年齢層が高いということだ。つまり、(一般と照らしてどうかということは置いておいて)個人個人にそれなりの”礼儀作法ルール”があるし、社会性もある。だから未成年者が盛り上がる他のSとは一線を画しているというわけだ。この事実がより”村”らしさを生んでいる。
先述したとおり、僕はこのおじさんおばさんの集落で起こる、些末な諍いや滑稽な人間関係を面白がっていた。都市部に生きる人間が忘れてしまった人間らしさをみたからだ。けれどある時、実は僕は笑えない状況に立たされているのではないかと思い始めた。

僕が観測したおじおばの集落から少し論を飛躍させれば、これはSNS自体の世代間ギャップによってサービス自体が大きな”村”になることを予想させる。例えば、以前学部1年生と話している時に、「facebookなんておじさんのSNSでしょ」と言われたことがある。実際、アカウント年齢のマスが高齢へとシフトしているらしいということもあるようだし、facebookは”古いSNS"になりつつあるのだ。そしてそれはfacebookの”村”化を意味している。
SNS世代間格差の背景にはそれぞれのマス年齢層が持つ礼儀作法やラング的なものの存在があるだろうが、僕が危惧しているのはもっと個人的な問題で、つまり、「そのうち僕も集落に住む老人になるのではないか」ということだ。
無論、それが常に悪いことなのか僕にはわからないが、少なくとも、僕が笑っているおじさんおばさんに、僕自身がなりつつあることは事実のようだし、是非ともそれは避けたい。僕はいつだって閉鎖的な田舎者じゃなくて、今を生きる都会人でありたいのだ。

考えてみると、これはfacebookが限界集落になるという個別的な予想にとどまらないのかもしれない。一般にPaaS (Platform as a Service)において、それを使用する年齢層にバラ付きが小さい場合には、同様の元素湯が起こってももおかしくないわけだ。そしてそれは、あるターゲットに焦点を絞れば絞るほど起こりやすく、ある意味最適化とのトレードオフになっているようにも思える。世界は電脳の海にPaaSという”村”を生み出し続けているのかもしれない。もはやこれはPaaSの背負ったカルマなのだ。

...さて、ここまでこき下ろしてきたfacebookが最近何をしているかというと、メタバースと呼ばれる仮想世界での交流という新たな技術開発に資金を投じている。歴史は繰り返すというか、大局的に見ればこれも新しい”村”のように思えなくもない。おわり。

追記。忘れあいように書きたいことのメモ。「僕だって昔は益川敏英のインタビューをすり減るまで聞いた」「”わかる”に定量性の概念を導入しよう」

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