カフェラテと諦め(23/02/05)

カフェラテは苦悩の色をしている。

寒波の後の小春日和が続いた。体調はまだ優れないがなんとか家から出て、景色の良いレストランで久々に食事をとった。食後、コーヒーが運ばれてきた時にふと、将来への不安には2種類あるのではないかと思った。つまり、明日が来ないかもしれないという不安と、どうしても明日が来てしまうという不安だ。
季節性の躁鬱で苦しい時期は、とにかく明日が来るのが怖くなることがある。否応なく時間が進んでいくことが、まるでそこに僕だけが取り残されていることが、とてつもない恐怖を随伴して襲ってくる。側からみれば大したことがないとどこかでは理解しつつも、憂愁とか絶望みたいな、どろっとしたものが禁じ得ぬ焦燥を駆り立てる。そういう時、僕はカーテンを閉めて自室に引きこもり、目に見えないヘドロをやり過ごすほかに無い。
湯気を立てたコーヒーの黒い水面に僕の顔が映っている。

明日ありと 思う心の 仇桜
夜半に風の 吹かぬものかは

親鸞は、夜半の風で儚く散ってしまうかもしれない桜に、自分の明日を、もしくは命の覚束なさを準えた。「明日は来るかどうかわからないのだから、今日を精一杯生きましょう」という警句として解釈されるようだが、こう言ってしまうとなんとも陳腐に聞こえる。
この和歌には明日が来なければどうしようという不安が隠れているが、それは換言すれば、(明日に対して)今日、そこに希望や期待があるということを示しているように思う。ちょっと矛盾的だけど、真っ新な希望にだって、否、その純白にこそ不安が潜んでいるのだ。
いつもはブラックだけど、どうしてか今日はちょっとだけミルクを注いだ。白い液体は少しとぐろを巻いてからふわりと広がる。

絶望が道程の石ころなら、希望は強すぎる追い風のようで、いずれも真っ直ぐ歩くには厄介な代物だ。強風に煽られ、石ころに躓き、道に倒れる。どす黒い恐怖と純白の不安が入り混じった後、そこにはもう、諦め・諦念(ていねん)しか残されていない。
親鸞を引いた後、こういう一切皆苦的な憂いはなんだか仏教ぽいなと思い至った。(仏教素人で恐縮だが)先述の一連は、ほとんど仏教の一丁目一番地的な考え方ではないか。人間の本質には苦があり、まずそれを受け入れることから始まる。苦諦にはもう、その全部が含まれている。
(たびたび仏教エアプで恐縮だが)苦諦を含む真理である四諦は、仏教の根本思想でこれを悟ることを、諦念(たいねん)と呼ぶらしい。僕らは大体、諦念(ていねん)から始まり、諦念(たいねん)へと到るのだ。
カップの中で広がったミルクはやがて、コーヒーと完全に混ざり合い、ことさら静かに平衡に達する。悟りを開いた寂静みたいだと思う。

カフェラテは苦悩の色をしている。そしてそれは人間の色をしている。おわり。

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