うどんは食べ物か飲み物か 物理的視点と僕の現在地(23/04/23)

『カレーは飲み物』という言説があるが、咀嚼を必要とする時点で、飲み物ではない。食べ物か飲み物かというのはすなわち、咀嚼の有無であり、僕がここで書きたいことを象徴的に述べて仕舞えば、うどんと咀嚼の関係についてということである。

「うどんのおいしさとは何か」という疑問は、もうずっと僕の頭をもたげている。それを明示的に想起したのは大学二年生であったと思う。明示的に、というのはつまり、暗黙的にはそれよりもずっと前から、という意味なのだけれど。
過去には、その疑問に関する結論を得るべく、不毛かつ不要な、挑戦とも言えぬ挑戦を何度か繰り返している。例えば以下に挙げるようなものはそのほんの一部だが、言うまでもなく、それらは凡て、幾らかの問題により失敗に終わっている。

・『うどんを数学する』

(注:うどんのコシと喉越しからオイラーラグランジュ方程式を目指したもの。妄想。当時、ランダウ=リフシッツ『場の古典論』に代表される最小作用原理からの支配方程式導出にハマっていたと思われる)

・『うどんを科学する』

(注:うどんの流速を古典多体系としてモデル化したもの。恥部。当時、アクティブマターや相転移現象などのミクロな挙動がマクロに発現するメカニズムにハマっていたと思われる)
(コメント:タイトルが大仰すぎて科学のなんたるかをわかっていないことが見て取れる。襟をただす)

そもそも、「うどんのおいしさとは何か」などというのは、「国際平和とは何か」とか「脱炭素社会とは何か」といったような、曖昧模糊でかつ長大すぎる疑問であり、これは適切な問題設定とは言えない。だから、これまでも、そして今回も、そのごく一部について(要素還元的に)述べたいと思っている。

断っておくが、先に挙げた類似の問題がそうであるように、この問題に終わりはない。少し論を飛躍させるなら、『あるものごとを愛しているかどうか』を、どのように判断するかについては沢山の主張があると思うが、僕にとってそれは”考え続ける”とということだ。だからこそ、僕はこの不毛な問題について考え続けざるを得ない。それが愛するということだし、そもそも愛情などというものは、論理を飛び越えた衝動なのだ。

そんなわけで、「うどんは食べ物なのか飲み物なのか」というのは、「うどんのおいしさとは何か」という、もっと茫漠とした荒唐無稽とも思われる問題のごく一部を成すものである。しかも現時点でその(全体からすれば)小さな問題にすら答えを出せてはいない。だからこの日記は、単に、あるコンテクストにおける僕の現在地を記したものに過ぎないということを、まず述べておきたい。

前置きが長くなってしまったが、うどんを食するという現象を俯瞰した時、「おいしさ」という概念を構成する要素が二つに大別されることを確認しておく。すなわち、味や温度、ないし生体の味覚的主観といった化学的要因と、それから、うどん本来の喉越しや噛みごたえといった物理的要因である。もちろんこれ以外にも心理的要因やその他の個人レベルの要素に思い巡らせば枚挙にいとまがないが、ともかく、今は客観的に議論しうる化学的要因と物理的要因に目を向けたい。
もっと平たくいうと、化学的要因とは大雑把には味とか温度とかいった味覚に作用するもので、物理的要因とはノドゴシとかコシといった触覚に作用するものだと理解できる。
次に、さらに視点を絞って、物理的要因を要素還元する。一般的にうどん本来の触覚に与える概念としては、ノドゴシとコシが議論されるが、これは何に依存するのだろうか。
まず、ノドゴシについてだが、これは喉を通る時の流速、ないしは摩擦抵抗の少なさによって決定される。また勿論、この喉越しを感じている時間というのは麺の長さによって決まるはずだから、畢竟、喉越しとは、喉を通る時の流速(うどん表面の摩擦抵抗)と、その際のうどんの長さというパラメタを持つことが予想される。
一方で、コシはどうだろう。これは、主にうどん断面の硬度の変化率ないし、表面から中心に至るまでの弾性変化率により決定され、またそれを体感するための咀嚼回数に依存する。したがって、コシはうどんの太さやゆがき加減により決定される弾性変化率と、咀嚼回数というパラメタを持っていると予想される。

さて、これらの予想から、次に取るべき舵は、満足度と、勘案のパラメタとの定量的関係なのであるが、これは非常に難しい問題だ。先行研究を調べるとその多くは、官能評価によって物理的性質と心理的感受の関係を議論しているが、こんなことは今の僕にはできない。だから、これ以上のモデル化は一旦棚上げすることにする。

しかしながら、上述の議論には面白い示唆が含まれている。すなわち、『ノドゴシとコシの”異なる二種類”のトレードオフ』が発生しているのだ。

まず、ノドゴシの重要なパラメタとして、喉を通る時の麺の長さが挙げられる。しかし一方、コシを感じるには、咀嚼回数を増やす必要があるから、喉を通る麺の長さは自ずと短くなる。だから、ノドゴシとコシは、喉を通る際の麺の長さという定性的議論の段階ですでに、パラドキシカルな存在と言える。
次に、太さに注目する。うどんにコシを与えるには、表面から中心までの”質的変化”が要請されるが、これによりコシの強いうどんは自然に太いものにならざるを得ない。しかし一方で、喉越しとは喉を通ることで初めて達成される満足感であるから、あまりに太い麺の場合には、そもそも咀嚼が前提とされ、心地よいノドゴシを感じることができない。つまり、長さと同様、太さにも明確なトレードオフが存在するのである。
二種類のトレードオフというのはだから、長さと太さという非常に簡便な物理量によって象徴することができる。

最後に、「うどんは食べ物か飲み物か」という疑問について、先述の議論を前提として回答しておきたい。結論から言えば、むしろこの問いの立て方は主格が転倒している。正しくは「食べ物として捉えるべきか飲み物として捉えるべきかを決めなくてはならない」というべき論なのだ。これはつまり、咀嚼を少なくしてノドゴシを楽しむという”飲み物的”満足感を追求するか、咀嚼を多くしてコシを楽しむ”食べ物的”満足感を追求するかという意味だ。前者はどちらかというとコシのない大阪うどん的であり、後者は太くコシの強い讃岐うどん的である。

但し、要素還元主義による議論ではいつでも起こりうることだが、これらは二項対立構造では決してない。むしろ二つの要素が適切な塩梅で持って混合されバランスされた中で、「うどんの物理的おいしさ」は決定されるべきだ。だから論を通して僕が主張したいことは結局、うどんのおいしさというよりはむしろ、うどんをどう美味しく食べるかという受け手側の問題のようにも思える。

以上が最近の、うどんに対する僕の妄想だ。初めにも述べたが、これは物理的側面の、さらに矮小化された現象論的妄想に過ぎない。この路線でさらに定量化に挑むこともできるが、また化学的視点からは、出汁の旨みや麦の質、または温度の与える影響や塩気、酸味、甘味、辛味など、多岐にわたる要素が横たわっている。
愛するというとは考え続けることだ、と書いたが、止むことのない問題を提示し続けてくれるうどんという存在はきっと、これからも心惚らざることを許してはくれないだろうと思う。おわり。

(うどん屋の帰り道に寄ったバーで飲酒時に書いているため内容の正否は保証しません)


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