ながめのいいわけ

自分のことは嫌いじゃないし、ありがたいことに比較的普通に生活していても生きにくさを感じたりすることもない。ないのだが。

私は「話が長い」らしい。ついでに言うと、わりと早口。
今でこそある程度自覚しているが、特に後者は小学校の卒アルでランクインするくらいだったから周りからみるとかなり重症なのだと思う。
(卒アルでよくある「〇〇な人ランキング」の中になぜか早口部門があって、堂々の一位に選出された。ランクインどころの騒ぎじゃない)

学生の頃はちょっとイジられるくらいで、むしろおいしいとすら思っていた。少し違う形で意識するようになったのは、社会人になってからだ。
社会人として意識すべきことの中には、巨大な前提というか最早常識に近いようなものがちらほら存在していて、中でも大きな勢力を誇っているのがこの2つ。

①あらゆるものを端的かつ明確にすべし
②言葉は落ち着いてゆっくり発すべし

例えば、こうやって箇条書きしたりするのは①の典型だ。
仕事で作るメールだったら、自分だって普通にやる。
自分にとってややこしいのは、①と②に反する行為に対して異常に敏感な人が多いということだ。
①②を綺麗にこなせる人がすごく褒められるということはあまりない代わりに、そこからちょっと逸脱しているとすぐさまテコ入れが入る。この「反明確&反明瞭」へのアンテナの鋭さに自分が見つからないようになるまで、結構苦労した。もとい、自分の場合は見つかりにくくなったというだけなのだけれど。
大人だって人間だから、社内の人間やお客さんと分かり合えないことだってしばしばあって、ただその時に「話が長くて苦痛」「もっと分かりやすく言ってほしい」「結局何を言っているのかわからなかった」という言葉たちを頂戴すると、毎回少しずつ削られる。普段あまりない分、自分がほんの少しだけ削られているのがそれこそ明確にわかる。「あー、ちょっとショック受けてるじゃん自分」って、なる。

それは、もともとの自分を否定された悲しみとかいう壮大なものではなくて、相手から諦めを感じてしまうことに対するショックだ。
「あ、今この人は自分のことをうまくできてない人ってみてるんだな」というのを感じながら、それでも言葉はどんどんどんどん繋がって口から流れる。相手がどんどん冷めていくのを感じて、苦笑いまでされて、そう思われている自分のダサさに自分で閉口して、毎回ちょっとだけ悲しい。

こんなのは悩みのうちにも入らなくて、ある程度適応できてしまっている自分もいるから悩むほどのことでもなくて、実際そんなに悩んでいるかといわれると正直そこまでではない。そうなんだけど。そうなんだけど!でもさ!
それでも時々、本当にときどき小さく自分が削られる瞬間はあって、その事実まで抹消するのは空しいし、そっちのがよほど悲しい。

だから許せなんてふんぞり返るつもりは全くありませんので、
せめてここで書き殴るのくらいは許してもらいたい。
…こんなことをこんな文字数使って書くような人間だから、しょうもないランキングで一位とっちまうんだよな。


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