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兆しの月明かり

5月もありがとござました。
6月もnoteの方よろしくねっっ。

6月は4月と5月で得られたものを整理、熟成する時期なのではないかという感覚がきていて、人生で一番結果を残すことができたイケイケの状態で、あえて「腰を据える」というのはいかがなものかと緊急会議が開かれてました。

経営者としての自分は「せっかくいい流れできてるのに、わざわざ自分で止めるこたぁないだろ!もっといこうぜ!」って言ってるのに対し

人間としての自分は「俺にもよくわからんがとにかく一回浸透させろ、とにかく一度熟成させろっていう感覚がビンビンなんよ」と言っていて

サイキック整体としての自分は「まぁ施術としては今の自分ができることはできたからOK」という感じ。

三者三様の意見を俯瞰しつつ思うのはとにかく「一度整理と熟成に徹しろ」という、メッセージにも似た感覚だった。

なのでやることといえば経営者としての自分との個別面談。
「わかる、そういう気持ちはまじでわかるのよ。ぶっちゃけ俺も不安になった。え?ここで一回熟成させるの?まじ??」って。

でも、ここで一回この感覚通りにした方がいいというか、とにかく主張が強いからそうせざるを得ないというか、もう身体がそう言う方向でいくって決めてるから無理なんよね笑

多分なんだけど、「お金を追わないこと」ってアドバイスもらった時にようやくその意味が体感できた気がするんだよ。

今までの俺は「お金を稼ぐ」という体験が圧倒的に足りてなくて、すでにたくさん稼いできた人の「お金が全てじゃない」ばかり浴びてきた。

でもさ、同じくらい稼いだこともないのに偉そうなこと言えないよねってずっと思ってて、同じは無理でもせめて今の自分ができるMAXを自分の力で生み出したいって思ってたんだ。

それがようやくできて少し落ち着いた時に「お金を追いたくなる気持ち」というのをようやく体験できたんだ。少しだけど。

すごくね、嬉しかったんだ。
やっとリアルに、自分のやりたいことで生きていくことの実感というか、それに伴って出てくる不安とかを味わうことができるようになった気がしたから。

お金を追うか追わないかって、人によってどれくらいの金額でそうなるのかわかんないし、ビジネスの形態にもよる。

小さくてもいいから「追いかけたくなる自分」をどうしても経験したくて、その片鱗のようなものをようやく味わえたことにとてつもない充実感を覚えたんだ。

それを扱える準備はしてきたつもりだから今はこれを味わうためにどうか協力してほしい。別に6月を捨てるわけじゃないよ。やれることは当然やるさ。

でもうまくは言えないけど確信はあるんだ。
ここを焦れず、腰を据えて取り組めたら、夏は甲子園よりも熱くなる気がするって。

泣きながら砂を集めることはないようにしたいけどね笑


施術時のあの感覚を日常でも使うという練習をしています。
鬼滅の刃の全集中の呼吸「常中」のように、いかに平時でそれを行えるのか試行錯誤しています。

⚠️注意
ここからは非常にマニアックでとても変態的な領域になります。
部屋を明るくして、画面から離れてご覧ください。お兄さんとの約束だぞ⭐️

僕自身、施術時とそれ以外において人格的(便宜上)な乖離を感じていて、魂を7つに分けて各地に封印でもしてるんかと思ってました。

原因は様々あるのですが、おそらく施術時はなんか別の状態かなんかでやってるのかと感じていて、でもおろしてるとかそういう表現は使いたくなくてという感じです。だってなんか胡散臭いじゃん。自覚あるわけじゃないし。

僕はただ自分のことを知って、持ちうる能力を1200%使い切って生きたいだけなので、そのために何ができるかを考えてました。

で、ちょうど素敵な体験とアドバイスをもらえたので、
じゃあやってみっかっつーことで練習しているわけです。

眼なのか脳なのか分かりませんが「切り替えて」使ってます、多分。
「施術」というスイッチと「それ以外」のスイッチ。
明確な切り替えはまだですが「変わる瞬間というか変わったな」というのは多分掴みました。

「施術」という意識にして眼の奥を開く感じで、その状態で自分が知りたい「意図」を通して対象を観察することでなんか色々感じます。

とにかく「器」の設定が肝で「何が知りたいのか」「なぜ知りたいのか」が明確なほど情報の解像度も上がります。

これを道ゆく人に行っていくことで「感覚の差異」が分かります。
言語化できないものも多いですが「違うな」という感覚はわかります。

あまりに集中しすぎると「脳内」が収縮されるような感じがして何も考えられなくなります。あーこれはやりすぎか、間違ってるかだなと思ったので「視る」を全身にして負荷を散らすということを今はやってます。

細胞が80兆個くらい集まっているのが自分ならそれぞれ1つ1つが生きていて意思があるようなイメージでやればいけるんじゃ無いかと思ってます。

これの練習のために電車の中で目を閉じて、人の往来の雰囲気を掴むみたいなことをしてます。

駅に停車するたびに人が流れていくのですが、どちらの扉が開くのかで「空気の通り」を感じるのか「軽さ」の体感が変わります。

人が多いと濃く重いが、少ないと軽くて流れる。
身体に何かしらの反応があるので育てがいがあるなと思ってます。

「集中」は基本的に「槍」ではなく「球体」である方がいいのでいかに丸くふわっと全体的に広げるかを意識してます。

これらを数日行うことで結構変化が出ていて、まず「忘れ物」が増える。
意識して頭を使っていたことをしなくなったので「なんとなく」「大体」で準備します。

ここは意識すべきところかぁなんて思いながらやってましたね。

あとは目に見えるもの全部「虚像」なのでは?という感覚になる。
なんていうのかな、人は精神の塊なので、それを物質化したものが肉体という器であると思ってるんだけど、結局取り繕えるので、その奥を知覚したほうが早いなと思ってその「奥」を、感覚を使って視るようにしてます。

生き方が肉体に出るって散々言ってきたんですけど、これすらも虚像なのかなと思うようになりました。

「魂」という土台の上に、性格や人格などの生まれてから得られる要素が乗っかって「私」という個人になります。

それは親だったり別の大人だったりなど、いわゆる「土台を忘れた」人たちが主になります。

で、そういう環境で生きることで蓄積された経験が「土台」を底の方にしてしまい、忘れる。

後天的に育まれた要素を軸に形成されるのが性格で、その通りに可変するのが肉体であるなら「魂という土台を忘れた状態の肉体」であるのでこれはもう「リアル」では無いわけです。

でも後天的に培われたもの、であることは間違いないのでそこへのアクセスという意味では「身体は生きてきた結果を表す」というのは間違っていません。

僕はその先に興味があるので、この眼、脳の使い方をキッカケにどうやって知覚していくのかを練習してるという感じです。

全てのものには創り手の「意図」があります。
椅子とか机とか食べ物とか情報とか。なんなら「人間」とかその他の生き物もそう。

創り手が人かそれ以外かの違いというだけで「存在する」のはほぼ間違いないわけです。

この「意図」を知覚する感覚が、魂を知覚することにつながると思っていて、今の僕は猛烈にここにお熱な訳です。ゾッコンです。大好きです。

あとはここを意識することで人とのコミュニケーションも変わると思います。

齟齬が減る。自分の中での。
本当はこう思ってるのに上手に言えないとか、感じたことをそのまま伝えられずに結構悩んでました。

施術以外でのコミュニケーションは基本的にポンコツ丸なので、おふざけに徹して自分という人間に矢印が向かないようにしていたのはあると思います。

どんな人間かと言われても僕がわかってないんだからそりゃあお話もできないわけです笑

でも感覚で視れつつあることで自然に言葉が出てくる回数が増えていて、結構いいんじゃないかと思ってます。

やはり竹内晶貴という男は「孤高な男」だなと思っております(ドヤ顔)
最近ようやく人間的な自分と孤高の癒着が取れて、孤高が独立して存在することを観測しました。

こいつはただひたすらに進み続けさせてよかった。
振り向かせたり立ち止まらせたりするのではなく、心の思うままに好きなように突き抜けさせて良かったんだ。

ここに気づけたのがもうほんっっっっっっとうに嬉しくて、あぁ理解されないって最高だったんだなって救われる思いでした。

話が入るか入らないか、伝わるのかどうかって一目見ればわかります。
だからこそきつかったし、そういう自分を出すまいと一生懸命やってました。
一人になるのは嫌だなぁ、でも興味ないのに話聞けないよなぁって笑

結局、突き進みたい、探求したい、誰よりも何よりもひたすらに大好きなことを一生見続けたいという想いにブレーキかけて立ち止まらせて、どうでもいいことのために後戻りさせてたなって思ったんです。

「好きなこと」と「人間的な自分」って=ではなかった。
好きなことを理解されない期間が長かったからいつしか「人間として価値がない」って思い込んでたんだなって。

孤高が丸くなって存在に空間が生まれたことで、肩の力が少し抜けたような気がします。

この感覚は贈り物だなって思います。
一生かけて育てて、最終的にはかめはめ波打てるようになりたいと思います。

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