隣の芝生は引き抜いて自分の芝生に植えるしかないじゃん
他人は持っているけれども自分は持っていないもののことを才能と呼ぶと思うんだけど、
昔の自分はよく才能がないことに溺れて身動きが取れなくなっていたように思う。
何をするにも自分より前を行っている人がいて、
何をするにも自分より後発の人が自分より早く物事を習得する。
ゴールまでの階段が準備されているとして
人の倍以上の段数が用意されていて
他の人は1段飛ばしできるけど自分は1段ずつのぼっていくしかないとしたら。
途方もなく堅実で真面目な取り組みをしてやっと人並になれるのだとしたら。
そう思うとどうしても腰が重くて動くことすら諦めてしまう日々だった。
才能と呼べるものの内訳のほとんどは
それがいつの頃からか、「意外となんとかなるかもしれない」と思えることが増えていった。
例えば大人になって
会社の中で営業成績1位を残す人
資格試験に一発合格する人
特定のコミュニティでリーダーシップを発揮する人
もちろん凄い。そこは一切否定していない。
けど、昔夢見ていたミュージシャンやスポーツ選手のような途方のなさを感じるかと言うと、そうでは無いんだろうなって。
僕たちは前後の背景をすっ飛ばしてその瞬間の結果の華やかさに目を奪われる。
綺麗に着飾った外見のあの子はもしかしたらすごく貧しい思いをしてきて、いろいろなところから否定をされてきて、それが悔しくてとてつもなく努力をして来たのかもしれない。
そんな過程を無視して、外観から受ける印象だけで成金扱いされたりパパ活で稼いだ金で着飾った人だと思われたりするんだろうね。
そんなことを思ったら
会社の中で営業成績1位を残す人→最初からトップセールスマンだった?
資格試験に一発合格する人→実は資格に関する実務経験が半端ないんじゃない?
特定のコミュニティでリーダーシップを発揮する人→元々部活でキャプテンだったりしたんじゃないか?
なんてことを想像しだして、大抵の場合この仮説は当たっているんだ、
そう考えると、僕たちが才能と読んでいるもののほとんどは「スキル」と「経験」と言い換えることができる。
行動力のなさが自分の才能を否定していた
才能がスキルと経験で構成されるなら、やることは一つ。
色々なことをやってみて、自分の中に知見を貯めていくこと。
その中で自分が得意だ・好きだと思ったことに集中すればいい。
そしたら更地だった自分の庭に色々な芝生が埋まっていく。
最初はバリエーションが揃っていなくて汚く見えるかもしれないけど
徐々に自分の芝生が生えそろってきて青々とした庭に作り替えることができるじゃん。
今も人事労務の担当をしながら、note書いたり、読んだ本をまとめたり、NFT触ってみたり色々なことをしてる。
歩みは遅いかもしれないけどそこすらも楽しんでどんな芝生を植えるか探していきたい。
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