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”部活動”という宗教団体とスポーツ


盆と正月とスポーツ


先日のプロ野球中継。カメラはスタンドのファンをアップで写した。そこには終盤に逆転のピンチを迎えたチームのファンが、手を合わせ、目を瞑り、祈っている姿が写っていた。

特段珍しい光景ではない。スポーツ中継ではよく目にする。そして、ファンのみならず選手も"祈る"という行為をする。

日本人にとって祈るという行為をするのは、お盆と正月くらいのはずだが、そういえばスポーツではよく目にする。

ファンや選手は一体、誰に祈っているのだろうか。そしてファンの”祈る”という行為と、選手が”祈る”という行為は同じ意味を持つのだろうか。そしてそこまで強い信仰を持つ人が少ないはずの日本人が、スポーツをするということはどのような事なのかについて考えたい。

”あんこ”と”バター”くらい相性がいい


スポーツと宗教は実に相性が良い。それは宗教起源の歴史を遡ると容易に理解できる。

宗教の起源には諸説が様々あるようだが、大きな影響力を持つようになったという点では、どれも1万年前でどの説もそう大きな間違いはなさそうだ。

それは人類の定住開始と概ね重なる。

1万年前の定住を機に宗教を人類へより強固に浸透させたのは”感染症”であると私は考える。

というのも、確かに1万年前も宗教と感染症は存在していたのかもしれないが、定住以前の感染症はある一部の集団が感染したとしても流浪していることや、集団の人数から考えて現代のような感染拡大する可能性は極めて低い。

定住を始め、一集団の人数が増加(150人以上)したことにより感染症は大きな問題になったのではないだろうか。私が天災ではなく、感染症を挙げた理由がここにある。

「原因がわからない、目に見えない、コントロールできない」モノを人は畏怖し、そんな災いから逃れようとする。その結果、我々は”祈る”ようになった。そしてそれが報われたなら”感謝”するようになり、より信仰が深まるというサイクルへ入る。

スポーツも勝敗の「原因がわからない、目に見えない、コントロールできない」ことが多々ある。むしろ殆どがそうであるはずだ。

それ故、到底理屈では説明の仕様がない試合やプレーが生まれたりする。

そして、心から勝利を願うとき人は”祈る”のである。

つまり、奇跡の試合は野球の神様がつくっているのではなく、奇跡の試合が野球の神様をつくっているのだ。


無宗教の日本人が信じるもの


無宗教である日本人がスポーツをするという事は、どのような事なのか。

そもそもスポーツというのは「勝つか負けるかはわからないが、勝てると信じる」という事を無くして試合には望めない。それは下馬票でどんなに相手が格上でもだ。リングに上がるってのはそういう事でしょ。

何かを”信じる”ことが極めて重要であり、その何かとはキリスト教信者やイスラム教信者は一神教である天に存在する神であったりする。

無宗教の日本人の場合は何かといえば”野球の神様”であり、そのための修行として猛練習がある。

日本のスポーツ界には、特有の文化や仕来りが存在する。それらが問題視される事も多々ある。

非科学的で、精神論や経験論的な指導、猛練習によるオーバーワーク、一般社会では受け入れ難い部則。

それらを改善すべくと多くの有識者が声をあげ、それらの原因は”正い知識を知らないからだ”とされている。

つまり、科学的な知見を普及・浸透させることでそれらは改善されるのではないかという取り組みである。

しかし、それはどうだろうか。私は否であると思う。

どんなに科学的な知見が普及したとしても、無宗教である我々日本人から”近代部活動的な営み”を取り上げる事はできない。

それは人から信仰を取り上げる事ができないのと同じように。

この野球の神様とその信仰を良くも悪くも、どのように活用していくかは指導者にとって重要である。


100%の力を"出させる"手段


例えば「10人の選手に対して、1000m走を今のコンディションで走ることのできる100%で実施させる」ということを指導者ライセンス取得を目指す教習生へのミッションとした場合、どのような手段が有効だろうか。

ポイントとなるのは100%であることだ。95%ではなく100%だ。

つまり、タイムが早いから良いという評価ではなく、10人がそれぞれ今できる100%のパフォーマンスを出すというものである。

恐らくほとんどのスポーツチームは一律でスタートをし、タイムが早い選手は良くて、遅い選手は悪いという評価をされている。

しかし、1位の選手は選手は3:00でゴールしたが、余力を残して80%の力だったかもしれないし、6位の選手は選手は3:45のパーソナルベストでゴールし100%の力で走り切ったかもしれない。

これらのことを考慮すると、方法は3つあるのではないだろうか。

1、科学

毎回のタイムを記録しておき、目標タイムを各々に設定することや、心拍数などから運動強度を確認するなど、数値やサイエンス、テクノロジーを利用することにより可視化し、コントロールすることは可能だ。

2、競争

競争を促すことで最大値を出させるという方法もあるだろう。同じくらいのタイムの選手同士で競わせることや、リレー形式で行う手段だ。良し悪しは別として負けた選手やチームへ罰を与えることで、更に拘束力は強まるだろう。

3、宗教

”野球の神様が見ているから” 私はこれが最も強い拘束力を持つのではないかと思う。手を抜いたことを一番よく分かるのは自分だからだ。そして最終的には、直接的な監視も罰も必要としなくなる。


監視としての”野球の神様”


私が今回、注目したいのは「3、宗教」である。

これは何も、例に挙げた1000m走的なトレーニングや競技練習にのみならず、本来直接的な監視が不可能な”生活”まで拘束することが可能になる。

それらをより強固に拘束し、一般的な法律の外であるはずの髪型や食事や恋愛や性生活などを含めた特有の仕来りや校則や部則までをも強固に拘束することができるのが部活動宗教である。というか本来の意味での宗教である。

キリスト教は本来、誰も監視と規制が出来ないはずの性生活までを禁じた歴史がある。

監視は内在化する。


宗教の役割


動物には集団の自然な規模には限度があり、約150を超えると群れや縄張りは分裂するそうだ。しかし、我々ホモ・サピエンスは違ったそうだ。

ホモ・サピエンスはどうやってこの重大な限界を乗り越え、何万もの住民からなる都市や、何億もの民を支配する帝国を最終的に築いたのだろう?その秘密はおそらく、虚構の登場にある。厖大な数の見知らぬ人どうしも、共通の神話を信じることによって、首尾良く協力できるのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史(上)」

我々人類がここまで繁栄し、子孫を継承してこれた理由の一つに”宗教”があるそうだ。虚像とは見ず知らずの見ず知らずの会った事もない人々を束ねることに大きな役割を果たした。例えば”国家”という虚像が戦争に大きな役割を果たしたように。

部活動においてもそうだ。部員が50人もいればスタッフと保護者で150人以上の規模になる。部員だけで150を超えるところもあるくらいだ。そうなると自然に放っておけば分裂が生じる。

そこには虚像が、宗教が、思想が、信念が、哲学が必要になる。

これを分かってか、無意識か、全国大会に名を連ねるチームは宗教団体感が強く、監督は教祖のように咎められる傾向にある。

逆に150人に満たないチームからは思想や信念、哲学は生まれにくいのかもしれない。


まとめ -野球の神様とは何か-


「ファンや選手は誰に祈っているのか」は「野球の神様」である。
では、「野球の神様」はどのようにして生まれ、その信仰が強まるかといえば、誰かがシナリオでも書いたかのような「奇跡の試合」である。

つまり、上記で述べたように「奇跡の試合は野球の神様がつくっているのではなく、奇跡の試合が野球の神様をつくっている」のだ。

そして、無宗教の日本人選手はそれらに加え修行としての「猛練習」を信仰するのだ。何か信じるものがあることが、戦いに向かう選手には必要だからだ。

だから、どんなに科学的な知見が広まろうと、有識者が部活動改革に乗り出そうと”近代部活動的な営み”は無くなる事はない。

更に、野球の神様は監視の役割も果たす。練習のみならず生活にもだ。

こうした野球の神様を敬拝する”部活動教”は、世間では全く理解されないような部則や仕来りを持つ。そしてそれらは150を超える集団を束ねるのに良くも悪くも必要である。

我々はこれらを理解した上で、指導し、チームを運営していかなくてはならない。





菅野雅之


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