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ホリエモンと餃子屋店主の攻防に見る日本人のメンタリティの低さ

今ネットで沸騰中のホリエモンと餃子屋店主による攻防。このようなことが起こるとどちらかが悪いというシーソーゲーム的コメントが後を絶たない。ケースは違えど、ほぼ、同じようなパターンをたどるこの日本人のメンタリティをそろそろ手放しませんか。

餃子屋事件

日本人の性質として、やじうま根性、いじめ体質、無責任体質があると思います。今回の場合は、ホリエモンと友人がこの餃子店に入ろうとした際、ホリエモン以外がマスクを着用していなかったため、入店を拒否。そもそも店頭の看板にマスクを着けていない方の入店お断りの看板があった。その時にホリエモンが「どれくらいマスクをしていれば・・・・」と応酬し、店の店主が他の客を気遣い「面倒くさいから帰れ!」といった出来事。これを後日ホリエモンが自身のツイッターで店名がわかるような表現で非難したところ、この店主の店に嫌がらせの電話が殺到、ホリエモンのツイッターも炎上。メディアのコメンテーターも参画して、ああだこうだとのシーソーゲーム。店は休業、家族は精神的に衰弱し、奥さんは体調不良という状態。

店主は店の客を優先し、ホリエモンは著名人のプライドを傷つけられた。巷ではよくある話ですが、特にホリエモンのような著名人がツイッターというメディアに載せて拡散すると、当然このような事態になることは想定されたと思います。私はここで、ホリエモンが悪いとか、店主の対応にも問題があるとかをいうつもりはありません。

「火事と喧嘩は江戸の花」ということばもありますが、それを見に行くやじうま根性は否定しませんが、毎度繰り返される「いじめ、無責任体質」はどうも気が滅入ります。

真の原因

原因は、当事者同士、その瞬間、エゴイズムが肥大し、プライドという自己防衛意識を抑えきれず、低レベルの感情が表出したこと。つまり、お互いが心に翻弄されたということです。つまり、これはまだまだ人の意識が「心は自分自身である」という幻想にまだ惑わされているということを意味します。「心は蛇蝎の如し」と浄土真宗の始祖の親鸞は言いました。心はへびやサソリのようなもので、一度あばれだしたら手に追えないという意味です。それだけに、一度つかまれば翻弄されてしまうのが心の怖さだということを述べています。

こころを見つめ、こころを静める第三の目を自分の中に育てることの重要性を説いている言葉でもあります。そのためには謙虚さ、感謝の気持ちを育てることだとも言っています。

親鸞の言葉をさらに深く、解釈するならば、心は本当の自分ではないということです。心を越えたところに、真我があり、それは崇高で、自分と他人、そしてこの世界は一体であるという境地のことです。一体であるならば、争う必要など毛頭ないのです。すべては我であり、起こる事象すべては鏡に映った自分の姿であるということです。こころは、自分の至らなさに気づきを与えるためにあると言い換えることができます。

日本人のメンタリティ

一方、今回の騒動に第3者が関わっています。これは日本人のいじめ体質の象徴です。つい先日、首相を退任された安倍元総理の時もしかり。アベノマスクに始まり、コロナ禍への対応や打ち手を悉く非難され、支持率が最低まで落ち込んだかと思うと、体調不良を理由に続投を断念と報じられ、その座をおりることになった途端に、支持率が急上昇。「私はいってない、私のせいではない」と言ってるかのように「お疲れ様でした」的な報道に急変。今回の騒動も餃子店が休業、奥さんが体調不良との報道がされるや否や、ホリエモンに謝罪要求といつもこのパターンの繰り返しです。

これも先に述べたエゴイズムの肥大化、つまり、人はいつも悪いのは自分以外の誰かという意識でいるのです。

我と汝

哲学者のブーバーは「我と汝」という著書の中で、自分と馬は幼少のころ話ができたと書いています。しかし、大人になるにつれて心が通じ合わなくなったと。

現代はまだまだ自分と他者、我と汝という二項対立の意識レベルの低い世界にいる、ブーバーも親鸞もこのことに問題提起を発しているのです。

日本人だけではない、人類はそろそろこのことに気づき、自分の心を越えて、自分と他者は一体であるということを前提に物事を捉えてみませんか。これからはそこに意識を向けてみませんか。そして、謙虚と感謝の気持ちを育みませんか。

私はこの手の論争に改めてこの問いを立てたい。そう思うのです。


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