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【読書録68】自己の主体性あってこその『読書』~落合陽一「忘れる読書」を読んで

 著者は、落合陽一氏。
NEWSPICKSの「WEEKLY OCHIAI」において、どのような分野の専門家ともレベルが高く本質的な議論ができる教養、その圧倒的な発想力、また紡ぎ出す言葉の奥深さに惹き込まれる。
 ただ自分には理解できないことや興味が持てない分野のこともあり、少し遠ざかる期間がなかったわけでもない。でもやっぱりその圧倒的な存在に触れてみたくなりいつも戻ってきてしまう。

 そんな落合陽一氏の読書論。読書する意味、本の読み方、また著者が読んできた本を紹介する。

 紹介する本の分野は、古典からニーチェ、鈴木大拙などの西洋・東洋哲学、小説、専門分野である理工書まで幅広く圧倒される。落合陽一がどうやってできてきたか、その一端を知ることができる。
 また父親である落合信彦氏との「ニーチェを読まないやつとは話ができない」や「陽一の名前の由来が+-」などの逸話はほほえましいとともに、この親にしてこの子ありという事を感じざるを得ない。
 そして、高校時代、落合信彦氏の本をよく読んでいたことも懐かしく思い出した。

読書する意味


著者は、読書する意味について、こう言う。

今の時代に読書する意味は何かと問われれば、第一に「思考体力をつけるため」、第二に「気づく力をつけるため」、第三に「歴史の判断を学び今との差分を認識するため」と私は答えるでしょう。

 そして、先行きのわからない時代を生きるからこそ必要になる「新たな教養」を「持続可能な教養」と呼ぶ。

 持続可能な教養とは、➀物事を「抽象化する思考」を鍛えることと、➁「気づく」能力を磨くことであると言い、読書こそその力をつける良い方法であるとする。

 思考の抽象化が何故必要かという問いに対して、イノベーションを起こしやすくするためというのは、なるほどなあと思った。

自分の文脈で本を選ぶ

 
 「気づく力」を著者は、もう少し、ブレークして、「点と点をつなげる」「課題を見つける能力」と言っている。またアーチストである著者の目線からすると「自分でストーリーを練り上げる力」であるとも言っている。

「点と点をつなげる」。著者が読んでいる幅広い分野、世阿弥の「風姿家伝」からニーチェの「ツァラストラはこう言った」、鈴木大拙の「日本的霊性」、村上春樹の小説あるいはテクノロジー分野まで著者の発想力や思想の奥深さは、この幅広さからできているんだと感じる。

世界に情報が氾濫し、情報を持っていること自体の価値は著しく低下しました。そんな中で価値を生み出すのは、自分なりの「文脈」に気づき、俯瞰して情報を位置づけられる人ではないでしょうか。

 単にお薦め本を片っ端から読むのではなく、自分なりの文脈で本を選ぶ。
 そして自分の文脈とは、どのような問いを立ててその本と向き合うかという事なのではないかと本書を読んで実感した。

そうした「問い」は、「自分はこれが好きだ!」という「嗜好」やいくつもの文脈をつなぐ思考フレーム、つまり「独自の考え」といったものからしか生まれてきません。機械と対峙していく人間の役目は、「この文脈でこういうアクションを起こしたい」という「フレームを規定すること」に集約されていくとおもいます。そして、人間が規定したフレームの枠内のことは、AIがやってくれる世の中になるのです。
だから、今後どんな素養を培えば「持続可能な教養」を備えることができるか、と問われれば、「自分で物事をフレーミングできる力」だと答えます。

 私の学生時代を振り返ると、単に知識を得るために読む、自分を飾るために読むというような感じであまり読んだ本の内容について身についていないと感じている。ただ著者の言う、「忘れる読書」と私の若いころの状態は全く異なるようにも感じる。

「忘れる読書」とは何だろうか?

 
 本書の中で、著者は、本のタイトルに込められた「奥深い何か」を感じながら読むというのも醍醐味であると言う。

 「忘れる読書」というタイトルに込められたものはなんであろうか?

ショウペンハウエルは、「読書について」の中でこんなことを書いている。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的に合うものだけを、精神のうちにとどめる。

 自分が考えていること、掲げた問いがあれば、読んだ本は「フックがかかった状態」になり、「血肉化」して、感想やメモを残さず「忘れた」としても心や脳にヒダのように刻まれていくのではないだろうか。

 単に文字の情報である知識から知恵に昇華していくプロセスを「忘れる」と言っているようにも感じる。

 あくまで自己の主体性あっての読書だからこそ、忘れても残るのであると感じた。
 ショウペンハウエルの言葉で言うと、同化するからこそ「忘れられる」のではないだろうか。
 自分の主体性が無いと、単に本の著者の思考をなぞっているだけであり、それは本書でいう「忘れる」とは全く意味が違うものであろうと思った。

読みたい本がまた増えた

 
 さて本書を読んでいて読みたい本がまた増えた。
世阿弥「風姿花伝」、猪瀬直樹「ミカドの肖像」など。また「夜と霧」は以前図書館で読んだが手元に置いておきたい本である。
それから最近、お茶を習い始めた身としては、「南方録」も手に取りたい。

 一方で、ニーチェはなんどかチャレンジしたが、なかなか敷居が高い。是非、著者にニーチェ論の本を出してほしいものである。

「読書の秋」も終わろうとしているが、まだまだ読みたい本は尽きない。

落合陽一の『禅問答』


 著者の落合陽一氏が、世の中の常識から自由に突き抜けて生きられている理由が本書を通じてよくわかったような気がする。読書を通じて、向き合っている世界が広く深いため、自由でいられるのであろう。
 ジョン・ロックの「市民政府論」を読んで「0⇒1」のスケールの大きさに感嘆する人間は、世の中の小さな「常識」や「慣習」に囚われるはずはない。

 最後に、最近の落合陽一語録の中で好きなものを紹介して終わりにしたい。

 WEEKLY OCHIAIの中で、視聴者からの「日本の未来を考えてくださるのはなぜですか?」との問いに対する落合陽一氏の答え、

「えっ、みなさん、自分の家の中にゴミとか落っこってたら拾うでしょ?」。

 本書を読んでから考えると極めて禅的だなあと感じる。この言葉で私はますます彼を好きになった。

 





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