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仏のいへになげこめば。「手放す」からはじまる、「受け取る」とケア

受け取るって、やってきているものに気づくことでもある。昨日は、バトンを受け取ることについて主に書いた。ぼくらはいつだって、多様な刺激ーまたは、呼びかけcallと言ってもいいかもしれないーにさらされている。その呼びかけcallに応答responseするのかは、その呼びかけを聴き取り、それを受け取る=引き受けようと思えるか。それを引き受けた上で、その人なりの応答の仕方が生まれていく。その複数の応答の仕方には、創造性が宿る。

前回の終わりに宗教性と受け取る、ということを書いてみたい、と言って終えた。宗教性を感じるとは、外部の回路がひらけることでもある。日常の中で、「自分が自分が」と自我が強いモードから、その外側の世界を経由してもどってくると、一周してちがう世界が見えていく。それは、自他がすこしだけゆるんでしまったり、いろんなものと関係して、生かされているんだなあ、と感じられたり、そんな変化が生まれる契機になる。

道元禅師の『正法眼蔵 生死』の一節には、以下のようにある。藤田一照さんが「坐禅の割り稽古」という連載で、引いている一節だ。

ただ、わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる。

坐禅の割り稽古 試論 藤田一照
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5625

これになぞらえて展開される坐禅論が、おもしろい。releaseから、receiveを通じて、enjoyに至る、とある。
まずは「わが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれ」ることからはじまる。修行でも仕事でも、日々をただ生きるうえでも、力を入れて肩肘を張って、これでいいのかな…と正解を探り当てるように心を費やして模索する。それは親鸞のことばでいえば「自力」に近いように思う。自分でなんとか上手くやろうとしている状態。それではガチガチになってしまう。身をも心をもはなち、とは、身構える・心構えることなく脱力する状態だという。

つまり、releaseする。そして、仏のいへになげいれるのだ。release仕切れていないと、「身心を自分の所有物だと錯覚してそれに執着し(握りしめ)、自分の思い通りに操ろうと悪戦苦闘している人間」である”凡夫のいへ”に閉じこもったままになる。

藤田さんは、これを凡夫の得意とする問題解決や作業を終わらせるような「doingモード」だと説明している。努力して、力をいれて、心を費やすことが問題解決には必要だからだ。必然、心身はこわばる。

doing モードから being モードに切り替えるということは、「大自然に生かされて、俺が生きている」という二層構造的な絶対的事実のうちの、表層の「俺が生きている」という doing モードの層が背景に退き、深層の「大自然に生かされて」の being モードの層が表舞台に登場するということを意味している。そういう大自然の自ずからなる働きのことを、ここでは「仏の家」と呼んでいる

坐禅の割り稽古 試論
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5625

その反対にあるのが「beingモード」であり、ここでは「自分が」という主体がうすれ、何もしない状態に近い。ただ、それはただいるだけなだけど、手放すreleaseことで、これまで意識に登ってこなかったことをやってくるようになる。たくさん感受する。受け取るrecieveことがはじまる。

ぼくたちはすでに受け取っている。それは抽象的な話でもありながら、とても身近でもある。藤田さんが具体例として挙げているのは、地面に立つときに、人が地面を押す力と呼応して「地面からの支える力」の受け入れが生じていること。または、呼吸もしかり。息を吐いたあとに、自然に空気を吸う。これは仏からやってくるものだ、と考えられるという。

「受け取る」という意味の receive という動詞になるだろう。坐禅につながるような、さまざまな receive の稽古を考案するのである。たとえば、耳を緊張させてこちらから音を取りに行こうとする普段の聞き方を手放し、耳をくつろがせやってくる音をそのまま受け取るような聞き方の稽古がそれに当たる

坐禅の割り稽古 試論 藤田一照
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5625

自分が、がんばろうを手放したら、おのずと受け取りやすくなる。これまですでにやってきた呼びかけ=仏からの贈与は、無数に日常に埋め込まれている。
最近、京都のデイケアセンターで刺し子活動を見学にいってきた。ここでは、京都芸大の学生とおばあちゃんたちが、毎週1回、刺し子という布地に糸で模様等の図柄を縫う手芸をやる。行ったときには、もくもくとおばあちゃんたちが、布に糸を通す。時折、絡まってしまい、学生に助けを求めたりする。あるおばあちゃんは、布にとてもランダムな間隔と色使いで、ひたすら糸を通していた。「きまぐれやからね、わたしは」というのが口癖のようだった。

ここに流れている空気と、おばあちゃんたちの存在には、それそのものが発する力強さのようなものがあった。そして、ここにくるおばあちゃんたちのなかには、当然5年の刺し子の活動の中で亡くなったり、認知症で他の施設に移った方もいる。それでも、ここでずっとやり続けているひともいる。歳を取っても、こんなふうに手を動かして、気まぐれに表現がし続けられる。自分で糸を通せなくなるかもしれないが、周りに人がいればなんとかやれる。歳を取ったときに、こういう場があり、このおばあちゃんたちのようにいられたら、と思った。老いとい生き方。おばあちゃんの存在と活動の風景そのものが、語りかけてくるものがあった。

それも、自分がここでなにができるか、とかじゃなくて今日はただ居て、見てみようと思ったから受け取れたものかもしれない。おばあちゃんだけではなく、いろんなひとが、いろんなことを言葉を発さずとも本来は語りかけている。ひとだけではなく、仏もモノも樹木も土も小鳥も川もほんとうは語りかけているんだと思う。その声を受け取る。

声を受け取る、callに気づく。これはケアの営みのはじまりの一歩でもある。外部の回路がひらかれるというのが宗教の役割のひとつだとしたら、その宗教的な生き方に宿るケア性が、とても興味深い。

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