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市民・危機・想像力:いまもこれからも必要な想像力

コロナウイルスに伴う現象をみていると想像力が欠けた社会は、いかなるものかという現実を突きつけられる。政府の対応に国民の買い占めやマスクの転売、不用意な外出など。

商品券を配布することで、家賃が払えなくなったら?もし自分が少し余分に買うことで、食料が手に入らない人がいたら?自分が感染者であったら?感染しても、自分は軽症状としても家族や周囲の高齢者にうつしてしまったら?
と、ちょうどこれを書いている途中、素晴らしい記事が出ていたので、そちらをまずシェアしておきたい。

ここでは、どちらかというとより長い期間や未来を見据えての想像力の必要性を考えたい。経済以前に、社会が適切に回るためには想像の力が不可欠である。「元の世界」に戻りたいという欲望を抱こうとも、元いた普通には決した戻れない気がする。人間の集い方やコミュニケーションなど多様な次元で新たな地平を切り開いていかなければいけない。また今回のウイルスが落ち着いたとしても、感染症はまたいつか起こり得る。直面する環境危機により壊れゆく世界からのしっぺ返しが起こったときも、今回に似た想像力が求められる事態になるだろう。

今回の日本政府の対策のうち、クラスターの抑え込みや集団免疫の獲得などに伴い、市民の行動変容がその1つに挙げられる。この方針は、中長期での対応を見込まねばならないし、ワクチンの開発は1~2年かかるとされる。新たな感染者がでないという状況にいたるまでには、まだ時間がかかるという覚悟がいる。この間をどう生活していけばよいのだろうか。政府からの情報やコミュニケーションをどう設計するのかも重要である一方、市民の想像力も重要である。

想像行為は、実際にぼくたちの今の感情や行動に影響を及ぼすどのような情報も、結局は受けてのイメージの形成=想像力に働きかけることである。
想像力とは何であるか?なぜいま考えるべきなのか?想像力は抑圧されているのだろうか?もしそうなら、なぜなのか?

想像力とは何か

想像力は、最も広義にはありとあらゆる「心的なイメージ」といえる。こころに想い描かれたイメージ。現実の時間や空間を自由に超えられることができるのも想像力ゆえだ。目の前にない、例えば「犬」をこころに描く。それは実家で飼っているボーダーコリーかもしれないし、渋谷のハチ公像かもしれない。もののけ姫の山犬かもしれないし、翼を携えて空とぶ犬かもしれない。

鷲田清一さんの想像力のレッスンでは、「何か現前の手がかりを媒介にする」と述べる。1枚の家族写真から、当時の体験を回想することも想像行為といえるし、知覚にも想像力の補填が必要である。目の前のバナナの、裏側は見えていないときに、バナナの見えていない部分も補う、つまり部分から全体をイメージする。日常には目を向けられることのない手がかり=「想像への窓」が溢れている。今年から趣味で短歌を詠んでいるのだが、以前よりも想像の窓に繋がれるようになったかもしれない。樹齢200年の大木に触れ、歴史の重みを感じつつ、200年前は一体ここはどんな場所だったのかと想いを馳せる。家のほとりの湖畔を散歩中に見つけた、燃えた黒炭から焚き火を囲んでなにを語らふのだろうか、と考え巡らす。

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いくつもの想像力

想像力のはたらきは、多様であり人間活動の根っこにあるものだと思う。決して学術的な分類でもなくロジカルな分類でもないが、いくつかの考える切り口として並べてみたい。

共感的想像力ー自分ならざる他者や他種に対して理解を生むための想像力。今、ウイルスの蔓延する状況下で必要なことのひとつである。自分は感染していない、でも感染した人の立場に立ってみる。自分は、感染しても若いから大した症状はでない。でも自分がより死に至りうる高齢者であればどうか?もし自分が身体的に長距離移動に苦労するのに、近所のスーパーには必要な食材などが買い占められていたらどうか?「今ここにいる自分」とはことなる場所にいる他者へ想像と感情を働かせられなければ、行動は変えていけない。

社会的想像力ミルズの本に述べられる、自分と社会の関係性。自分の問題は社会の問題に繋がりうるのだという想像力。自分をより大きな文脈に位置づけて描くための想像力。例えば、ひとかけのチョコレートは、どこかからのカカオで出来る。つまり、南北問題(先進国ー発展途上国)、グローバルな資本社会の問題に通じうる。スーパーでチョコを買う自分が、そのような諸問題と実感のないままに接続されていること、日々の中でそれを思うこと。子育てママさんの大変さを自分や家庭のみの問題ではなく、社会の構造に位置づけてみる。そういう想像力。

虚構的想像力ーあり得た過去や、現在、起こりうる未来、可能世界を想像する力。例えばCounter factual (反事実) 的な考え、今日は友人の誘いを断ってゲームをしていたけど、もし今日ぼくが誘いにのっていれば、どんな'異なる今日'になっていただろうか、と考える。またはこれからの可能性を思索するーもしコロナウイルスにより人の触れ合いが希薄化する未来になったら?と考える。この虚構的想像は、先に述べた共感的想像力にもつながる。例えば、外出自粛というが、もし自分が家がなければどうなるだろうか?を描くことで家のない人々への想像力を持ちうる。ぼくたちは、偶然の結果として今ここに行き着いているだけで、常にあるかも/あったかもしれない別様の世界が存在している。

システム的想像力ーひとつの出来事が、何につながるのか。Aという現象からその先何が起こりうるのか、行為/現象の示唆を描く力。例えば、冒頭に述べたコロナウイルスにおいて個人の行動。「自分が1束多くのトイレットペーパーを買うことで、結果的に何が起こり得るのか」だ。または、このウイルスは働き方にどのような示唆をもたらすのか?働き方のオンライン化?では、リモートワークが拡がれば、環境への負荷とどう繋がるのか?という想像。あらゆるものは有機的につながっている。これがより飛躍した推測の範疇へいく(Extrapolation)すれば虚構的想像力へつながる。

編集的想像力ー異なる事象に線を引くという想像のちから。ぼくの地元の名古屋は、小倉トーストに、あんかけパスタ、台湾ラーメン、味噌カツなどこうした編集的な食文化が豊かな地域 (ウイルスの事例が思いつかなかったので地元を引き合いにします..)。これは異なる二物のあいだに線を引き繋げてみた結果である。そのためにAとBの関係性をイメージする。アナロジーやメタファーなどもこの想像の働きだと思う。調和するのか、類似するのか、反発しそうだけど実は?みたいな。人気沸騰のお笑い芸人ぺこぱのネタに「間違いは故郷だ。誰にでもある」とあるが、間違いと故郷の共通項を紡いだといえる。

なぜ想像力が必要なのか?

いくつもの想像力を見て、おわかりになるだろうが、これらは現代の人間の在り方を示唆する。以前のべたように「自分が良ければよい」というのは自分のふるまいの結果を描けぬ社会的想像力の欠如であり、共感的な想像回路が壊れていると言える。

ぼく個人としては今回のウイルスに対する政府の対応ほどずさんなものはないと思う。政治的決定をおこなう機関としてもはや機能していない。だがやはり、市民としての想像力も求められる。自分が不用意に賑わう場所へいけば、感染しうるかもしれない。言葉を選ばずいえば、自分が間接的にでも身近な人や赤の他人を殺しうるかもしれない。そういう想像力が、まずもってして必要だし、その想像力をもててない日本の現状を傍目ながらに感じてしまう。

世の中を渦巻いているのは紛れもなく不安感情である。買い占めやコロナウイルスに乗じたレイシズム、ヘイトなどは、こうした不安感情の払拭という欲望から生じているともいえる。この不安は、想像からくるものでもある。

「人間が絶望するのは、現在の状態から、『こんな不幸が訪れるだろう』『こうなったら怖い』と未来を連想するから。逆にいえば、連想するからこそ、希望をもてる。人間が不安を覚えるのも、この『連想』してしまう性質と関係すると思います」
WIRED: 合理的判断だけを追求すれば、自分の人生を手放すことになるより

希望を見出すことも想像力ゆえである。希望も絶望も想像力が生み出し、その結果として行動や感情は影響を受ける(分かりやすい例を挙げれば、片想いの相手のことを考えて悶々とした不安に陥って手がつかないのもそうだ)。その意味で、非現実的な妄想や未来の想像であっても、常に今ここの現実とつながっている。だからこそ、この混沌なる状況において、想像を駆使し、希望を紡いで、祈りを投げかけるように前に進んでいかなければならない。

とはいえ、SF作家のBruce Sterlingは「我々は非想像的な文化に突入した」と述べ、Mark Fisherは「資本主義より世界の終わりを想像するほうがたやすい」と言い放った。一方、地球上に残されている最後の資源は想像力なのである。未来学者のFred polakは「人類はより素晴らしい夢をみる力を持っている」という。ここから見るにも想像力という本来、人類誰しもがもつ力であり最後の資源を、現代は失いかけているのだ。

なぜ想像力は失われたのか?

原因は1つにまとめられるほど容易ではないし正直わからないのだけど。例えば、過剰な情報環境ーあふれる電車の中の広告にスマートフォンの通知。すぐに調べられて、すぐに分かった気にもなれば、それ以上の想像することもなくなる。発信の仕方としても、モバイル的な生活へ応じるための、見出し1秒で判断できるわかりやすさを追求する。これは究極なる利便性にも通じる。重箱の隅をつつくほどに丁寧なサービスは便利な一方で、想像し、自身の自律的な能力を活かす余白を削いでゆく。

一方で、近代化の整備というのは、ブラックボックス化を導く。目の前のトマトの生産経路をしらない。これは社会的な想像力を育みにくくする。はたまた、グローバルな資本主義の影響により、共同体的なものは失われいったのに加えて、自己責任論が台頭する世の中では、個人が生を請負ざるを得ない認識が支配している。それは自分がよければよいのだと、他者への共感的な想像力を阻んでしまう。

この近代的な資本主義のコード<儲かる/儲からない>は数字に支配され、費用対効果で測ることのできない未来への投資は敬遠される。徹底的な合理化と効率化の果てにより、即時的な利益で判断することで、未来へは投資できない。近視眼的な想像しか持ち得なくなってしまった。それはまた、寄り道や遊びといった予断を許さない社会の風潮でもある (政府の未来につながるための、教育や文化への優先順位の低さは明らかだろう)。

こうした環境に慣れきって、想いをめぐらすことをぼく達はやめてしまった。いまのぼくたちは<今・ここ・わたし>に囚われた想像しかできなくなってきている。<今ではなく、ここではなく、わたしではない>という想像力があれば。現前の自己利益ではなく、これがより長い視点でみたときに何を意味するか、から行動が変わっていく。わたしではない他者の思いに向けることで、わたしからわたしたちへと拡張していく。現前とは別様の可能性を描くことで、希望を抱ける。そう信じたい。

改めて述べたいが、今回のウイルスは震災と異なり、目に見えない。ゆえに一層の想像力が求められる。環境危機でも同じく目に見えないがじわじわと地球は壊れていて、それが突然の異常気象により始めて浮き彫りになる。しかしそれは日常の中の行為がもたらしたことでもある。今回を乗り越えても、また起こる。そのためには、日常の生活の中で想像する力を多くの人が持ち得なければいけない。それをどう回復していけるのだろう。

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