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終わることで更新される関係性

昨日、終わりや別れ、死をテーマにしているスタートアップの方とお話しをしていた。彼は、離島の集落に住んだことから、なくなっていく集落がたくさんあるけど、当人たちは少なからず負い目を背負っている、と言っていた。それは「自分たちの代で終わらせてしまう」負い目だそうだ。
でも、中にはそれを一つの自然の摂理だね、って捉えて、受け入れられているひともいる。この終わりと別れへの向き合い方が、とても大切だと感じて、会社をつくったという。素敵だなと思った。

亡くなったひと、終わったものごと。終わりや別れは日常に、実につきまとう。今後、多死社会を迎えると言われており、消滅可能性なんて言葉もたまにきくが、終わることへのネガティブな感覚が当たり前に浸透しているのが、現代都市だ。

それは、終わることが痛みを伴うからこそ、その痛みを避けるために「つづける」ことにしがみつく、といったメンタリティの裏返しでもあるんだろうな。持続可能性にも、おなじことがいえる。惑星の消滅、人類の終わり。やばいじゃん、つづくようにがんばろうよって。

話しているなかで、ただ、終わりっていうのはある便宜上のラインであって、その境界はゆらいでいる。終わったというのは、ある種の主観的な”感じ”である。例えば、大切な人が亡くなってしまうのは、肉体がなくなり、物理的には存在しえなくなるという意味では確かに終わりだ。一方で、こころの中で、関係の中で、生き続けていくことも当然ある。

今年は、17年いっしょに生きてきた実家の犬が亡くなった。ちょうど、体調が悪いからと休みの日に急いで京都から名古屋の実家に向かったが、数分まにあわず、家についたときには、すでに息を引き取っていた。横たわっているその姿は、またほんのり温かいような気もするし、なんならいつも寝ている姿勢とおなじだったので、息をしているかのように目が錯覚してた。不思議な時間だった。

その日はダンボールで祭壇をつくり、小さい頃にあそんでいたフリスビーや、好きだった骨のお菓子なんかをお供えして、夕方まで一緒に過ごし、葬儀屋さんに向かった。お別れをして、京都にもどった。
それから数日経って、その犬の夢をみた。これまで、犬の夢をみることなんてあっただろうか、分からない。それでも、その夢を見られてうれしかったし、実家に帰ったらいつものようにいたはずの犬がいる、といったことはないけれど、ぼくのなかでその存在はつよくなった気がした。思い浮かべることが多くなった。例えば、お寺の参拝にいくときなんかに、なぜかふとよぎることがおおい。

もちろん、死とは終わりでもある。なんだけど、関係の終わりではない。むしろ、ちがう関係のはじまりでもあるんだなと思う。あるものごとも、終わることで手が届かないものになってしまう気がする。例えば、思い入れある事業でも、仕方なく閉じるしかなかったこともあった。それでも、その事業はとても特別なものだった。それだけ思い入れがあったからだと思うけど、それがぼくが「関わってないけど続いている」ことを想像したら、たぶん「終わってしまった後」のほうが、その事業とぼくの関係は、つよくむすばれるような気がする。

終わることで、終わった存在が、つよく輝き、浮かび上がる。それをこころに留めておく。思い出す。それに支えられていた自分がいて、ともに過ごしていた時間も、その関係にまるっと内包されている。終わることで、ぼく自身が生きてきた履歴自体が、その関係のなかに濃く刻印される。そんな更新があるようにおもう。

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