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どのようにノンヒューマンへの共感を育めるだろうか?

人間中心主義を脱する流れというのは昨今の大きなテーマにある。Ego-centric(人間のエゴ)からEco-centric(生態系)へのシフトの必要性は、ぼくが学ぶAalto大学の初日の基調講演の1つでも声高に叫ばれた。

ラトゥールを代表とするアクターネットワーク理論(ANT)は人間と非人間を等価なアクターと見なして、互いの関わり合いから社会を捉え直すための強力な理論であり思想の1つだと思う。そこでは人間はネットワークの外側に位置して制御や観察を行う主体ではなく、私たち自身もその絡まり合いに内在するいちアクターとして振舞う。他にも"多自然主義"や"パースペクティヴィズム"などの新たなコンセプトが人類学ではざくざく出てきていおり、改めて自然の捉え方、人間の捉え方に再考を促している。

仏教では縁起という考え方があるが、こうした複雑な絡まり合いは、人間/自然や、客体/主体などの分離・区別するような考え方を乗り越え、あらゆるつながりと関係性の中でしか存在しえないという、根源的な世界との連関を理解するために不可欠といえる。それは、人間という種がすぐれたものだ、他をコントロール可能だ、我々は独立した存在だ、などという甚だしい思い上がりを更生するためにも、自分という存在以上の超越的な世界とつながるためにも、必要な考え方だ。

ぼくたち人間も、体内には100兆もの微生物が住んでおり、例えばビフィズス菌は腸内を整えてくれる大切なパートナーであるし、そうした微生物はなんと思考や感情にまで影響を及ぼすそうだ。つまり、人間という種族単体でそうした自然から引き離されたら私たちは生きられないということ。

サステナビリティの議論においても、自然を対象として扱いがちであるものの本来は共生しており人間も自然の一部であり、ゆえにエゴを乗り越えなければいけない。

ぼくが住むフィンランドでは、今はしいて言えばキリスト教が主流であるものの、古くにはアニミズム的な考えが存在したそうで、人々は都心に住んでいても自然に生かされている感覚を強く保っている気がする。1つには気候の影響も大きいと感じる。年の半分は憂鬱で陽の光がない厳しい冬であるし、まざまざと気候によりその日の感情を左右される感覚を強く受ける。

しかし世界中で起きている環境危機の問題は、フィンランドでも大きな影響を与える。例えば従来とても涼しく過ごしやすい、そして太陽の恵みを全身に受けられる貴重な夏は、30℃を超え猛威を奮った。フィンランドの家は冬仕様で熱がこもるような設計であり、無論冷房もないのである。対処的に人々が冷房にあたり夜も寝られるように、各スーパーが門戸を開いたという話も聞いた。生態系は壊れつつある。

海との共生を考える、Critical Tide

と、長くなった前置きはさておき、ヘルシンキのデザインミュージアムではクリティカルデザインの展示Critical Tideが開催されていた。テーマは"海"であり、"共生"である。海においてClimate Crisisは海面の上昇から、汚染、海洋資源の過剰搾取まで顕著に見られる。デザインはそれを引き起こした人間のエゴな生き方を助長してきた。本展示はその責任を理解し、前を向き、共生的な未来のために生態系の回復に務められるのだという可能性を説く。

いくつか作品を紹介したい。

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こちらは、3Dプリンタで作った、珊瑚の成長・回復を助けるための人工珊瑚分かりづらいけど後ろの写真のように実際に実験がなされている。珊瑚は海中に置いてあらゆる生物の住処として機能するが、海中の温度上昇などによりサンゴ礁は絶滅に向かっている。この人工珊瑚は珊瑚の養殖を手助けするための第一歩。

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こちらはスペキュラティブなシナリオを提示。2070年を舞台に、海中に沈んだ都市の生活を描いている。詳しくはこちらのRadical Ocean Futuresを御覧ください。

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個人的にこれは好きだった、Hair Matという作品。人間の髪の毛は油を吸収する性質をもつために、それを活用して、あらゆる場所から雨により油が海へ流れ出てしまうことを防ぐためのマットである。例えば工場の機械近く、自動車修理場などで活用されている。

美容室から人間の髪の毛を、ペットトリマーから動物の毛を、農場から羽毛などを材料として集めて、編み上げて作る。つまり、人のエゴにより出したゴミともいえる毛を素材として汚染を防いでいる。

海、生き物への共感を促す

上記のような作品の他に、面白いと感じたのは節々に"海"や"海中生物"への共感を育む仕掛けがあったところで。例えば、ブラックカーテンにより隔離された小さなスペースでは、海中から海面を見上げた映像とともに音声がながれるインスタレーションがあった。これは、漁船や旅客船などが通るたびに海中で発生する騒音やノイズを再現するための映像であり、海中生物の視点からこれが問いかけられている。

また、展示の最後には下の写真のように、日本の神社を模したかのような参加型の作品が置かれた。これは「罪ほろぼしの箱」である。来客者は、展示の最後に1枚の紙を取る。そこには"海さん、今まで告げたことなかったけど、私はここにあなたへの罪を告白します"と記述されており、それに続く形で海に対しての自身の罪(または愛)を告げることで展示をしめくくる。

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アニミズムとは、海や、川や、生き物たちになりきる力である (と、最近の人類学の存在論転回ブームでは再定義されてきているらしい)。しかし、そうしたスキルも精神性も失われて久しいと感じる。合理的に設計された都市に住んでいれば、なおさらに。

共生や、生態系を大事にしよう!などど叫びつつ、サステナビリティをアジェンダに上げることは簡単であるが、その背景にある感情というのが本当の意味でそのような活動を動機づけするのではないか。他種族に共感やあらゆる感情を想像し抱くのは、必要な一歩だと感じる。まあ、ただでさえ自分以外の"人間(他者)"にでさえろくに共感したり、感情を想像することができなくなっている乏しい社会であるのだが...

ともあれ、これは大きなチャレンジだと思う。デザインは感情に大きく影響を与えられる。それを今までは、消費に接続する形で活用してきた。では今問うべきは、どうノンヒューマンへの感情・共感を、我が子に注ぐ愛ほどの立体的な感情は難しいかもしれないが、育めるのだろうか。そのような問いかけを本展示の仕掛けから読み取った、一方で強い共感を海に抱く、というところまで行けたかというと実感は薄い。では、どうしていくか、答えはないが、そんなことを考えさせられる展示だった。

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